史跡巡り 宗教・神話

神社の成り立ちを分類してみた①

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

たまなぎはここ数年で、作品の取材も兼ねて、様々な神社を回りました。

福岡市の香椎宮、筥崎宮、宗像市の宗像大社、春日市の春日神社、太宰府市の王城神社。筑紫野市の筑紫神社。八女市の八女津媛神社。鹿児島の霧島神宮、月読神社などなど……。

様々神様を祀っている神社を調べていくうちに、ふと気づいたことがありました。

本日はそれについてお話したいと思います。

 

神社の成り立ちにはパターンがある

たまなぎが様々な神社を回っていて気づいたのは、神社は成り立ちという観点から、いくつかの類型に分類することができる、ということです。

神社の分類と言えば、大抵は祀っている神様を基準に分類することが多いです。

菅原道真を祀っている天満宮系、応神天皇(八幡大神)を祀っている八幡宮系、宇迦御魂神(うかみたまのかみ)を祀っている稲荷系などに分類する方法はよく知られています。

しかし、成り立ちから神社を分類したものってあまりないのでは……と思って、先日こんな発言をX(旧Twitter)でしましたら、大変反響を頂きました。

 

というわけで、これについてもう少し詳しく解説したいと思います。

 

そもそも神社とは? いつ頃からあった?

日本で現在のように社殿のあるいわゆる「神社」が建てられ始めたのは、7世紀ごろからと言われています。

しかし、「神を祀る」という行為自体は、ずっとそれ以前から行われており、どこが始まりかを特定するのは困難です。

古いもので確認できるのは、宗像大社の奥津宮のある「沖の島」で、巨岩の上に神を迎える「岩上祭祀」(4世紀後半)でしょうか。

この時はもちろんまだ社殿はありません。社殿が建てられるのは、もっと後の時代のことです。もう少し詳しく見て行きましょう。

 

神社の成り立ちを5パターンに分けてみた

たまなぎは、神社の成り立ちを5パターンに分けてみました。

それは次のようなものです。

①神籬(ひもろぎ)型……社殿が作られる以前から信仰があり、後に社殿が作られた。宗像大社など。

②封じこめ型……反権力の人や神を、祟らないよう封じ込めた。太宰府天満宮など。

③偉人崇拝型……功績のあった人を、神として祀った。豊臣秀吉を祀った豊国神社や、徳川家康を祀った日光東照宮など。

④勧請型……神々の性格が規定された後、守護やご利益目当てで先に社殿を建て、特定の神を祀った。

⑤その他、特殊型……①~④に分類されない成り立ちを持つもの。霊廟が起源の香椎宮など。

 

長くなりますので、本日は①と②について解説したいと思います。

 

神籬型神社~大神神社・宗像大社など

これは、最も古い成り立ちの神社です。

もともと日本には、巨岩や巨樹を神が降りる場所に見立てたり、神の姿をその中に見たりして信仰する習慣がありました。

これを神籬(ひもろぎ)と言います。

宗像大社の高宮祭場も、社殿が出来る前に祭祀が行われていた場所ですね。

 

つまり、元々神を祀る習慣が先にあり、後付けで神社が作られたものです。

三輪山をご神体とする大神(おおみわ)神社なども、これに当たると考えてよいでしょう。

社殿が建てられたのが7世紀以前、もしくは不明とされている神社は、この型が多いと思われます。鹿児島の霧島神宮などもそうですね。

ちなみに、このタイプの神社はご神木が立派なところが多いです。神籬の名残でしょう。写真は霧島神宮のご神木。

 

 

もともとの神籬から神が移され、神社となったものもあります。

こちらは基山山頂のタマタマ石。神を迎える磐座だったと伝えられています。後に荒穂神社(または筑紫神社とも)に神が降ろされ、祀られました。

 

古くからの信仰がそのまま生きている神社で、たまなぎとしては大変そそられる神社です。

 

封じこめ型~太宰府天満宮・北野天満宮

以前、こちらの記事でも述べたとおり、日本の神社には怨霊神が沢山祀られています。

権力側が自分たちの都合で死に追いやった強力な人や神が、「祟るといけないから」神社という装置を作って封じ込め、「神として祀るから祟らないで下さい」と祈りを捧げるというものです。

詳しくは前述の記事に書かれていますが、これらの神社には、怨霊が社殿から迷い出て祟りをなすことができないよう、様々な呪術的措置がなされています。

菅原道真を祀った北野天満宮や太宰府天満宮がその代表的な例です。

 

また、天津神に屈服させられた国津神の代表である大国主命を祀っている出雲大社も、大変厳重な呪術的措置がなされており、この型の神社と考えてよいでしょう。

 

生前から深い恨みを表し、死後は怨霊になることを表明して亡くなったと伝えられる崇徳上皇も、現在は白峯神社に祀られています。

ただ、崇徳上皇の場合は一度後白河上皇によって供養され、藤原頼長の霊と共に霊社という神社に祀られ、さらに霊を鎮めるために頓証寺という寺まで建てられますが、死後すぐから現在の白峯神社に祀られたわけではありませんでした。

武家政治が終わりを告げて天皇親政の世に戻った時、崇徳上皇が再び祟りをなすのではないかと恐れた孝明天皇の意を汲み、明治時代にわざわざ白峯神社を作って招き、重ねて祭り上げたのです。

何故なら崇徳上皇の残した呪いが、「皇を取って臣となし、民を皇となさん」=「天皇の世の終わり」を告げるものだったからです。実際その後、崇徳上皇の死から間もなく、鎌倉幕府が開かれ、天皇中心の政治は終わりを告げました。

それが徳川幕府の大政奉還により、天皇親政の世に戻ったため、崇徳上皇が再び暴れ出すのではと恐れ、再び祀り直すという念の入れようだったのです。崇徳上皇は史上最大の怨霊と言われていますから、これは当然かもしれませんね。

 

この手の神社にはそれぞれに創建にまつわる様々な悲劇が伝わっており、大変興味深いです。

 

さいごに

長くなりましたので、続きは次回に譲ります。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

© 2024 たまなぎブログ by LTA出版事業部