歴史 物語

菅原道真の哀しき幼子たちの運命

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

さて、前回の道真公の鯰退治の記事には沢山の反響を頂き、ありがとうございました。

 

本日は続きです。

菅原道真が晩年を過ごした太宰府市周辺には、全国的にはあまり知られていない道真公の足跡が沢山残っているのですが、本日はその中でも、太宰府に帯同した、幼い子どもたちのその後についてご紹介したいと思います。

 

隈麿の墓

道真には伝承上の子も含めて10人以上の子がいたとされますが、道真が左遷された際にそのほとんどは道真とは引き離され、各地方に流されたといいます。

隈麿は幼かったため、姉の紅姫と共に道真との同行を許されましたが、わずか1年半で病で命を落としてしまいます。

 

その隈麿の墓とされる場所が、道真の旧住居・榎社からほど近い住宅街の丘の上に、「隈麿公の奥津城」として残されています。

 

案内板にはこのように書かれています。

「隈麿公奥津城

昌泰4年(901)、菅原道真公が大宰府に左遷された折、同行を許された二人の幼子のうち、男のお子さまが隈麿公でした。父親譲りの利発な子で、配所での不自由な暮らしの中でも読み書きに励み、傷心の道真公を慰められましたが、延喜2年(902)、病により亡くなられました。道真公は「秋夜」という漢詩の中でその悲しみを詠まれています。

隈麿公を埋葬した場所は「隈麿公奥津城」と呼ばれ、地元住民の方々の真心により今日まで大切に守り伝えられています。傍らには五弁ならぬ六弁の珍しい花弁をもつ老梅が佇み、春には清らかな香りを放ち続けています。

太宰府天満宮社務所」

 

たまなぎが訪れた時は残念ながら梅は終わっていましたが、少しずつ桜が咲き始めていました。

来年は梅の時期に来て、六弁の梅を探してみましょうね。

 

道真は『秋夜』という漢詩集の中で、隈麿を失った悲しみをこのように詠んでいます。

床頭展転夜深更 背壁微燈夢不成

早雁寒蛬聞一種 唯無童子読書声

〈童子小男幼字。近曾夭亡。〉

 

<読み下し文>

床頭(さうとう)に展転(てんてん)するに 夜も深更(しんかう)なり
壁に背けたる微燈(びとう) 夢も成ならず
早き雁かり 寒き蛬(きりぎりす) 聞くに一種
唯 童子の読書する声のみ無なし
〈童子は小男(せうだん)が幼き字(あざな)なり。
近曾(ちかごろ) 夭亡(えうばう)せり。〉

 

<意訳>

秋の夜 寝床で 寝返りを打つだけで  夜は更けてゆく
壁には淡いともしびが揺らぎ 夢をみることもできない
時期より早い雁と季節外れのコオロギが 鳴く声は聞こえるが
息子が読書する声だけが聞こえない
<童子とは息子の幼名の通称 この子は最近早死にした>

第7号「隈麿公(くままろこう)のお墓」 – 太宰府市民遺産 (xn--7stw62ab5g4q3a.jp)

 

汚名を着せられ、沢山の親しい人と引き離され、わずかに手元に残された幼子までも失ってしまった。道真公の悲しみはいかばかりだったでしょうか。

 

紅姫の供養塔

また、この隈麿には姉がいました。

紅姫という名でした。

大宰府に来てわずか1年半で弟を亡くし、その一年後には父・道真も失意のうちに亡くなってしまいます。

この紅姫の供養塔と伝えられる地蔵石像が、道真公の館跡・榎社の一角にひっそりと建っています。ちょうど桜の時期でした。

 

紅姫のその後についてははっきりしたことは分かっていないそうですが、福岡県篠栗町に、「紅姫稲荷神社」という、紅姫をお祀りする神社があります。

この神社の縁起によると、父と弟を亡くし、都に残った母も亡くなってしまった紅姫は、弔いを済ませた後、道真公から託された密書を土佐に流された長兄に届けるために旅立ちますが、藤原氏の手の者に追われます。若杉山山麓の地主山崎氏にかくまわれ、若杉山上の太祖宮に加護を願いますが見つかり、殺されてしまったといいます。

若杉山は弘法大師信仰が厚く、笹栗霊場として後世に発展した場所ですので、このお話もひょっとしたら後世に作られたものかもしれません。

しかし、太宰府と笹栗両方に紅姫のお話が伝わっていることから、道真に紅姫という幼い娘がいて、太宰府で亡くなったことは事実なのでしょう。

何とも哀しいお話ですね。

 

さいごに

道真公の失意の晩年。

前回の武勇伝とは対照的ですが、こちらの方が一般に伝えられているイメージに近いかもしれませんね。

しかし、道真公の幼子たちのその後については、全国的にはあまり知られていないお話なのではないでしょうか。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

 

 

 

 

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