皆さんこんにちは、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
「神社は少なからず怨霊神を祀っており、怨霊を慰撫し鎮めることで善神に転化させている」ということは、これまでこのブログで繰り返し述べました。
今日はこのことについてもう少し詳しくお話ししましょう。
1.閉じ込められた神
怨霊神を祀り、閉じ込めるといえば、太宰府天満宮や北野天満宮を思い浮かべられる方も多いと思います。
菅原道真が無実の罪で大宰府に流され、失意のうちに死を遂げた後、都では清涼殿への落雷、疫病の流行などの災害が相次ぎます。
御霊信仰と結びついてこれらは道真の祟りとして恐れられ、後に都に住む多治比文子という少女に託宣が下り、道真の霊を慰めるために北野天満宮が建てられます。
ところが、「怨霊神を祀り、閉じ込める」のは、もっと古い時代から始まっていたのです。
『常陸国風土記』には、このような記述があります。
土地の古老が言うには、継体天皇の時代に武力の長官で麻多智という人がいた。この麻多智が常陸国行方郡西方の湿地を開墾して、田んぼをこしらえていると、夜刀神(やとのかみ)が仲間を連れて現れ、土地所有権を主張して、何かと開墾の妨害を働いた。
激怒した麻多智は、自ら武装して兵士を指揮し、片っ端から土地の人々を殺害し、あるいは山奥へと追い払った。
(中略)
そして麻多智は、山の入り口にある境界の堀に、目印となる柱を立て、夜刀神に宣告した。
「ここから山の上は神の土地と認めてやる。だが、境界から下の方は、われわれに従って、農耕に精出す人々の土地だから、決してはいってはならぬ。私は今後、神の祝(はふり=祭祀を行う人)となって、永代にわたり敬って祀ろう。だから祟ったり恨んだりしないでくれ」
そして社(やしろ)を設けて、初めて祭った。(引用元:『常陸国風土記』筆者訳)
ざっくりまとめると、こういうことですね。
「継体天皇の時代の王権側の人物・麻多智は、夜刀神という神の土地を勝手に開墾して抗議され、逆ギレして現地の人たちを殺しまくって神を山に追放し、境界線に柱を立てた。そして、
『ここから下には降りてくんな! 永遠に神として祀ってやるから祟るんじゃねえ!』
と言って神社を建てて祀った」
……何とも勝手な話ですが、近畿地方から始まった大和朝廷が、日本全国を支配下におさめるためには、その過程で沢山の現地の人を武力で服属させています。
自分たちの都合によって人を殺し、追放しておいて、その祟りを避けるために祀る、こういったことは、古代の日本において、数多く行われてきたことなのでしょう。
古い神社が少なからず怨霊神を祀っている、というのはこういうことなのかもしれません。
武力で服属させられ、祟って当たり前なのに、「神社に祀られ閉じ込められることにより、祟ることさえできなくされた」被征服民の悲劇。そういった負の歴史をも秘めているのが神社なのです。
2.神々を閉じ込めるための装置、封霊四法
怨霊神を祀り、閉じ込めるための装置として、本格的に神社が建設されるようになったのは7世紀頃だと、古代史に関する本を沢山執筆されている作家の戸矢学氏は言われています。
怨霊はまっすぐにしか進めない、という俗説に基づいて、怨霊神を祀った神社には、様々な建築上の工夫がなされていることは、前回の記事で軽くご紹介しました。
大きく曲がる参道は、その時にもご紹介しました。
前回の記事はこちら
これは封霊四法といい、陰陽道に基づいています。四法というだけあって4つあります。
①本殿と拝殿・参道の横ずらし(怨霊が本殿から出ても、拝殿の壁に阻まれてそれ以上直進できない)
②拝殿を通過しても、川があって、超えることができない(橋は人間用)ように建設設計されている
③拝殿を出ると真正面に蕃塀(ばんぺい・独立した板塀)が建てられており、それ以上進めないように建築設計されている
④拝殿を出て間もなく、参道が直角に曲がっており(L字型やT字型)それ以上進めないように背建設設計されている
こうしてみると神社は、怨霊神にとっては、まさに牢獄です。
蕃塀は後世に不便・目ざわりなどの理由で撤去されることもあるので、この4つのどれにも当てはまらない=怨霊神でない、と断定はできません。
また、河川の多い日本では、近くに川がある=②に当てはまるとは限りませんが、参道から真正面に直角に川が横切っているような神社は、②に当てはまる可能性が高いです。
古い神社を訪ねる際は、是非チェックしてみて下さい。
調べてみると、思わぬ歴史が出てくるかもしれませんよ!
【参考文献】
戸矢学著『サルタヒコのゆくえ~仮面に隠された古代王朝の秘密』(2022年,河出書房新社)
沢史生著『閉ざされた神々~黄泉の国の倭人伝』(1984年,彩流社)
最後まで読んで下さって、ありがとうございました!