皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、今日は閉じ込められた神々の続きです。
前回の記事では、征服した先住民の祟りを避けるため、殺したり追放した人々を神として祀り、神社に封印したという悲しい歴史が、古い神社にはしばしば秘められていることをご紹介しました。
前回の記事はこちら↓
持て余す怒りを発散することもできず、神社に閉じ込められた神々の苦しみはいかばかりだったでしょうか。
しかしこの後、荒ぶる神々は意外な方法で慰撫されていくことになります。
本日はこれについてご紹介しましょう。
1.神宮寺の建立の始まり
日本に仏教が伝来した後、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏をはじめ、仏教を受け入れるか否かで様々な争いが繰り広げられたことは、皆さんご存じのことでしょう。
そして、7世紀ごろから、神宮寺の建立が盛んに行われるようになります。
神宮寺とは、神社の敷地の中に立てられた小さなお寺のことです。
古い神社に行くと、本殿の横や敷地の隅に、小さなお堂が建てられているのを見たことがある方も多いのではないでしょうか?
先日訪れた春日神社にもありました。
春日神社についての記事はこちら↓
このようなお堂は、何のために建てられたのでしょう?
神道と仏教は、どのように並立していったのでしょうか。
2.「神身離脱(しんしんりだつ)」と「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」
神宮寺の建立の目的は、神々を慰撫するためでした。
この頃から、神前で僧が仏法を説いたり、お経を上げたりする習慣が次第に広がっていきます。
この背景にあるのは、このような考え方です。
「神は迷い苦しむ衆生の一人であり、仏教を喜び擁護し、仏教により救済され、神の身を離れ、仏教を守護する護法善神となる」
仏教によって救われた神が、仏法を守護する善神となる、という考え方を、「神身離脱」といいます。
この考え方は、神道側から見ると、「神社に封印した荒ぶる神々の慰撫」となり、お互いにとって都合のよい考え方となります。
土着の神々が仏教によって、仏教を守護する神となるというのは、別に日本特有の考え方ではありません。
仏教の本家インドでは、インド神話の戦いの神インドラが帝釈天となったり、鬼神である夜叉が十二神将となったりしていますし、中国では独自の山神様・泰山府君が閻魔大王と同一視されたりしています。
同時に、このような考え方も次第に広まっていきます。
「本地である仏・菩薩が,救済する衆生の能力に合わせた形態をとってこの世に出現してくる」
この考え方は、鎌倉時代に「本地垂迹説」として完成しますが、その起源は平安時代以前にさかのぼることが分かっており、7世紀ごろに始まった神仏習合の流れをくむものと考えられています。
こうして、明治時代に神仏分離令が出され、神仏分離が政策として行われるまで、日本人の中には神と仏が同居していくことになるのです。
3.『遠の朝廷にオニが舞う』と神仏習合
以下はおまけです。
拙著『遠の朝廷にオニが舞う』のネタバレを盛大に含みます。
これからお読みくださる予定のある方は、ここでストップされて下さい!!
よろしいですか?
『遠の朝廷にオニが舞う』を執筆していた時は、私は神仏習合については今ほどきちんと勉強してはいませんでした。
しかし、この作品の中に私は、荒ぶる神となった過去の人物が、主人公の説得に加え、薬師経によって慰撫され、怒りを鎮めていく、という場面を描きました。
また、主人公の師である法蔵が、主人公に、「十二神将はもともと天竺の夜叉だったが、仏法によって救われ、仏法を守護する神となった」と教える場面も出てきます。
今になって振り返ると、『遠の朝廷にオニが舞う』は、「神身離脱」の物語でもあったのだな、と思います。
はっきりと自覚していなくても、こういう場面が自然に出てきたのは、日本人の中に神仏習合がそれだけ深く根付いている証拠なのかもしれません。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました!