作品解説&エピソード 『遠の朝廷にオニが舞う』

『遠の朝廷にオニが舞う』の世界㊽白村江の戦いと古代日本の外交その4(by 珠下なぎ)

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さて、今回も前回の続きです。

 

白村江の戦いで大敗を喫した日本軍ですが、その後、日本は唐・新羅に対してどんな外交政策をとったのでしょうか?

また、唐と新羅の関係は、その後どうなったのでしょう。

 

白村江の戦い後、都に戻った中大兄皇子は、即位して天智天皇となります。

その直後、日本各地に朝鮮式山城を作らせたり、大宰府に巨大な水城を築いたりと自国の防備を固めます。

ところが、白村江の戦いからわずか2年後の665年、天智天皇は白村江の戦い後初めての遣唐使を派遣します。

さらに667年、669年と立て続けに、合計3回もの遣唐使を送っています。

 

天智天皇が、唐との関係を重視していたことがよくわかります。

天智天皇は、強力な中央政権国家を樹立しようとしていましたから、唐にその体制を学ぼうという気持ちも強かったのかもしれません。

一方、新羅には668年に一度、遣新羅使を送っただけです。こちらも白村江の戦い後の国交回復を目的としていたものですが、唐に3回の遣唐使を送っていることから、天智天皇がどちらを重視したかは一目瞭然です。

 

大陸の情勢はいかがでしょうか。唐と新羅は白村江の戦い以後、さらに同盟を続け、668年には唐と新羅との間にあった高句麗を滅ぼします。

地図をご覧下さい。

引用:遠き日の勇者の物語~白村江の戦と大伴部博麻~ https://youtu.be/OicuXxGf1nM

 

唐+新羅VS高句麗+百済が、オセロのように互いを挟み合っていると前にお話ししましたね。

百済と高句麗が滅ぼされると、今度は新羅と唐は、直接国境を接するようになります。

すると、朝鮮半島を統一したい新羅と、朝鮮半島に進出したい唐は、当然対立するようになり、670年には唐と新羅の間で戦争が勃発します。

新羅は百済地域の唐軍を追い出して朝鮮半島を統一するとともに、今度は自らが滅ぼした高句麗復興運動に手を貸し、唐に挑みます。

 

ほぼ時期を同じくして、日本では天智天皇が亡くなり、672年に壬申の乱が勃発。勝った大海人皇子が天武天皇として即位します。

 

天武天皇は、天智天皇とは真逆の外交政策を取ります。

即位の直後の673年、大宰府に新羅使を受け入れ、675年を初めとして、何と4回もの遣新羅使を送っています。

一方遣唐使はどうでしょう。

1回? 2回? いや、逆に5~6回?

いえいえ、何と0回。

 

唐と新羅の対立が明らかになると、あからさまに新羅との関係を重視しした外交政策をとるのです。

 

この背景には、天武天皇の海人族との関係があると指摘されています。

天武天皇の皇子時代の名は、「大海人皇子」。

この時代、皇子や皇族の姫など、身分の高い家の子女には、乳母や養育に関わった一族の名がつけられることが一般的でした。

天武天皇の養育を担当したと言われているのは、大海宿祢(おおあまのすくね)。

安曇族系の氏族と言われています。

 

安曇族は、海との関りの強い古代史族で、現在の福岡県にルーツを持つと言われています。

福岡県・海との関りの強い氏族といえば宗像氏。

 

宗像君徳善の娘は、大海人皇子の長男・高市皇子を生んでいます。

高市皇子は壬申の乱の時成人していた唯一の皇子で、父を助けて活躍し、その後太政大臣にまで上り詰めます。

 

つまり天武天皇は、日本近海の海を知り尽くした海の氏族と、深い関りを持っていたのです。

 

ここでもう一度東アジアの地図を見てみましょう。

 

日本から大陸、ことに中国に行きつくのは、九州北部から出航し、壱岐・対馬を経て、朝鮮半島の海岸沿いに船を進めるのが一番安全なルートです。

海岸沿いに進めば、嵐があってもすぐに避難できますし、水や食料の補給もしやすい。

朝鮮半島の国々と友好関係があれば、陸路で中国を目指すことだってできます。

 

前回の記事で、筑紫の君磐井・宗像氏は、新羅との独自の外交ルートを持っていたとお話ししました。

朝鮮半島に近く、地理や航海事情を知り尽くした彼らは、朝鮮半島との関係の重要さを分かっていたのでしょう。

安曇族に養育され、宗像氏と深い関わりを持った天武帝が、九州の豪族たちと同じ選択をしたのも頷けます。

 

天武天皇が亡くなると、妻の持統天皇の下で、唐派と新羅派の激しい権力争いが繰り広げられることになります。

やがて、天智天皇が重用した藤原鎌足の次男・藤原不比等が持統天皇と結びついて頭角を現し、彼の下で日本は、唐に倣った律令国家を目指すため、唐との関係を重視する方向に変わっていくのです。

持統天皇は夫の天武天皇よりも、父の天智天皇の政策を受け継いだと言えるでしょう。

ところが、新羅との関係が悪化したため、702年に再開された遣唐使は、朝鮮半島伝いに唐を目指す北路ではなく、東シナ海の真ん中を突っ切る南路を取らざるを得なくなります。

引用:Wikipedia 「遣唐使

 

このため遣唐使は大変なリスクを伴う命がけの航海となり、やがて衰退の方向に向かっていくことになるのです。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございます!

 

 

 

 

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