『遠の朝廷にオニが舞う』 作品解説&エピソード

『遠の朝廷にオニが舞う』の世界㊼白村江の戦いと古代日本の外交その3(by 珠下なぎ)

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

 

今回も前回の続きです。

 

白村江の戦いで大敗を喫し、朝鮮半島における覇権を失ってしまった大和朝廷ですが、では、日本の外交戦略は、失敗だったと決めつけてよいのでしょうか?

 

その前に、7世紀に至るまでの、日本列島(特に九州地方と大和朝廷)における、大陸との関係について軽く触れておきます。

 

いわゆる「国対国」の外交として、記録に残っているものは皆さんご存じ邪馬台国・卑弥呼の時代が最古の部類に入るでしょうか。

卑弥呼は三国時代、中国大陸の有力国家だった「魏」から「親魏倭王」の称号をもらい、自分のバックに大国があることをアピールします。

 

このように、中国が周囲の国に対して、「~の王」という称号を与え、自国の後ろ盾があることを保証する引き換えに朝貢を要求する、という体制は冊封体制と言われ、前漢時代以降、朝鮮半島諸国など、中国周囲の多数の国に対して行われていました。

 

白村江の戦い以前の新羅も、隋が滅びて唐が中国を統一すると、この体制下に入って唐との関係を進めました。

 

卑弥呼の時代以降の、日本の大陸との関係はどうでしょうか?

 

日本人が大陸に渡るには、九州から出航するのが一般的でした。一番近いから当たり前です。

 

福岡市と北九州市の中間に、宗像市という街があります。

 

ここには、宗像氏(胸肩、胸形とも表記)という豪族の支配地でした。

宗像一族は、航海術に長けた一族でした。

何と4世紀ごろの昔(卑弥呼の時代からわずか100年後)から、大和朝廷と結びつき、その優れた航海術で大和朝廷の外交を助け、航海の安全を祈る祭祀を取り仕切っていたのです。

航海の安全を祈るために宗像氏が祀っていたのが、宗像三女神。

高天原に攻め上ったスサノオが、逆心のないことをアマテラスに示すために行った誓約(うけい)の儀式で生まれたという、由緒正しい神様です。

 

天孫降臨に先立って、アマテラスがその三女神を筑紫の海中に遣わしたという記述も古事記に見られます。

 

祭祀が行われたのは、九州と朝鮮半島のちょうど中間に位置する沖の島。

ここからは、新羅製の金の指輪、ササン朝ペルシア産のガラス器など、新羅や唐の伝来と思われる、様々な宝物が出土しており、新羅や唐との交流が盛んに行われていたことが分かります。

 

その一方で、以前このブログで紹介した、筑紫の君磐井。この人も新羅と親交があったことで有名ですね。

以前にブログで紹介したとおり、新羅製の金の耳飾りなども、八女古墳群から出土しています。

筑紫の君磐井の本拠地は福岡県八女市。宗像市からは約80㎞も離れています。

 

磐井の時代は、まだ大和朝廷の支配は完全には九州には及んでおらず、大和朝廷とは別ルートで新羅との交易を行っていたと考えられます。

宗像と違って内陸にある八女市から大陸に渡るには、長い陸路で北九州に出るより、筑後川を下り、有明海経由で朝鮮半島に渡るのが合理的ですからね。

同じ日本列島の中の複数の国と、別ルートで外交を行うのも、新羅の外交戦略だったのかもしれません。

磐井の乱のバックには新羅がいたのでは、なんていう説もあります。

 

朝鮮半島では複数の国家が並立し、日本でも複数の勢力が互いをけん制し合っている、という状況では、外交も非常に複雑な様相を呈することは、お分かりいただけたと思います。

 

それではいよいよ、白村江前夜の日本に移ります。

 

大和朝廷は百済と親交があり、百済皇子・扶余豊璋を預かっていたことは前回の記事で触れました。

 

ところが、同時期に、後に武烈王となる新羅の王族・金春秋も、この時期日本を訪れているのです。

金春秋が即位した後は、同じ新羅の王族・金多遂も日本に来ており、当時の新羅と日本とが、決して単純な対立関係にあったわけではないことが分かるのです。

 

661年、中大兄皇子は百済救援軍を組織し、同年のうちに九州に到着しているにも関わらず、なかなか兵を動かしません。

実際に白村江で倭国軍が実践に参加するまで、約2年の歳月がかかっています。

 

長期戦になるほど大軍は不利になるにも関わらず、です。

しかも白村江での戦いはわずか2日。大敗した後、あっさりと兵を引いています。

 

自国の兵士にこれ以上犠牲を出したくなったのでしょうし、そこまで朝鮮半島での覇権にこだわらなかったのかもしれません。

また、661年には同行した母の斉明天皇が急死しており、その影響も無視はできないでしょう。

けれど、何か、この経緯には、「とりあえず兵を出してやった」というポーズめいたものも感じられます。

 

このいきさつについては、小説家の荒山徹氏が、自作の小説『白村江』(PHP研究所)の中で独自の解釈をされています。

実は中大兄皇子は裏で新羅と通じており、百済に対してはそこまでの思い入れはなかった。

白村江の戦いは全て仕組まれたものであり、中大兄皇子の目的は、国を失って難民となった百済民を移民として獲得するためのものだった、というのです。

事実、その後数多くの百済人が移民として日本に流入しており、優れた知識や技術を持つものも少なくありませんでした。

 

中大兄皇子がそこまで新羅を重視していたかどうかは、その後の日本の外交戦略を見ると?マークがつくのですが、権謀術数に長けた彼のこと、「どっちに転んでも損をしない」ように動いていたのは確かかもしれませんね。

 

荒山徹氏は、朝鮮半島の歴史を学ぶために韓国に留学した経歴の持ち主なので、この方の解釈も的外れとはいえないと思います。

さらにこの小説は、読み物としてもかなり面白いです(結構エグい場面もありますので今から読まれる方はご了承ください)。

 

そして、白村江の戦いの以後、日本と大陸との関係はどうなっていくのか。

次回で白村江の戦いについての連載は終わりの予定です。

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

 

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