はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
今日は前回の続きです。
『神眠る地をオニはゆく』新キャラ・田中長者について。(前回の記事はこちら↓)
今日は現存する資料から、田中氏・藤原虎麿の実在性について検証し、また、資料からたまなぎが考えたことをご紹介します。
1.田中氏や藤原虎麿は、実在したのか?
田中氏の痕跡が残るのは、実は太宰府だけではありません。
地元の郷土史研究家・綾杉るな先生のブログによれば、実は福岡県朝倉市の杷木神社の縁起文にもその名があるということです。
ざっとまとめると、このように書かれているそうです。
磐井の乱後、磐井の残党青人らが土蜘蛛らと結んで再度乱を起こした。そのため物部麁鹿火は勅旨を下し、豊前国の企救長手、鷹羽金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸、田中男起(或る書に男立と云う)らに官符を伝えた。
残党の勢いは盛んで官軍は苦戦したが、大将の田中鷲丸が、大己貴命(おおむなちのみこと)、武槌命(たけみかづちのみこと)の助力を得、見事反乱軍を抑えた。
筑前国御笠群という、田中氏の拠点は、王城神社の縁起文に書かれているものと矛盾しません。
また、王城神社の縁起によると、田中氏が祭祀役を務めた王城神社の神は事代主ですが、王城神社創建時に、四王子山の山頂から降ろされたのは事代主・武槌命の二柱の神です。武槌命は田中氏とも縁の深い神といえます。
これらから、田中氏は単に伝説上の氏族ではなく、神代の時代から古代にかけて、今の太宰府市から朝倉市にかけて一定の勢力を持っていた氏族と考えられます。
一方、藤原虎麿についてはどうでしょう。
一般的には、藤原虎麿は実在の人物ではなく、初代筑紫大宰だった蘇我日向をモデルとして、後世に創作された人物とされています。
しかし、「王城神社縁起」には、王城神社創建当時の田中氏の当主の名前は残っていませんが、当時の国司の名として藤原虎丸の名があります。これは虎麿と同一人物と考えられています。
虎麿伝説のもとである、「武蔵寺縁起」とも時代的に矛盾しません(虎麿は天智・天武帝時代の人物)。
複数の寺社の縁起に登場する虎麿は、実在した人物だった可能性も十分にあると考えられるのではないでしょうか。
2.田中氏と虎麿の関わり
田中氏の当主・田中長者と、虎丸長者=藤原虎麿が持ち物比べをした話が、昔話として太宰府市に伝わっています。
これは、昔懐かしいアニメ版「まんが日本むかしばなし」でも取り上げられています。
ざっくりまとめますと、虎麿が大宰府の寺に詣でた際、にわか雨に遭ったので、田中長者に笠を借りに行くと、田中長者は真新しい笠を千本貸してくれた。虎麿は悔しくなって大飯ぐらい千人を選んで笠を返しに行かせると、食べきれないほどの飯でもてなされ、ほうほうのていで逃げ帰った、というものです。
実はこれも、「王城神社縁起」に書かれた短い文がもとになっているようです。しかし、元の話はもっとシンプルです。
田中氏の屋敷は今村の東、社の北東にあったという。長者屋敷というところが村の西側、麹屋の井戸の南西にあった。昔、武蔵の長者が王城大明神に参詣した時、急に雨が降って来たので笠を百個国衙の長者に借りたが、返す時片目の男に一人に笠一つずつ持たせて返したとある。
武蔵の長者とは虎麿のことです。
たまなぎが注目したポイントは二つあります。
①王城神社の縁起文にあるように、虎麿が片目の男を百名以上、家来として抱えていたこと。
②王城神社の縁起文を脚色して、昔話では虎麿が田中長者に対抗心を抱いているとされていること。
まず、①について。
片目は産鉄民族の職業病です。火をのぞき込むため、目をやられる人が多いのです。これはつまり、虎麿が製鉄の技術者集団を抱えていたことをうかがわせます。
それから、②について。
これからはたまなぎの単なる推論です。田中氏は、古い歴史を持つ地元の豪族です。一方、虎麿は「天智天武の二帝に仕えた功績があったので筑紫の国を任された」と「武蔵寺縁起」にあるように、筑紫に来て日の浅い、元・都の貴族です。
既存の勢力を煙たく思っていたのかもしれません。また、虎麿は薬師如来に帰依した仏教派。田中氏は王城神社の神官で、神道派です。
この時代は、廃仏派と崇仏派が激しく対立した6世紀ほどではありませんが、まだ神仏習合は進んでいませんでした。虎麿と田中氏が対立するのは無理のないことだったのかもしれません。
そして、前回の記事で述べたように、田中熊秀が建てた東蓮寺は、王城神社の本地とされました。東蓮寺の仏さまは、薬師如来。武蔵寺と同じです。
時代が下って、神道と仏教の習合が進むにつれ、虎麿の子孫と田中氏の子孫が和解したのだとしたら、素敵ですね。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!