『遠の朝廷にオニが舞う』 作品解説&エピソード

『遠の朝廷にオニが舞う』の世界㉙筑紫の君磐井その3(by 珠下なぎ)

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

 

今日はいよいよ筑紫の君シリーズラストです。

 

磐井の乱が鎮圧された後、筑紫の君一族はどうなったのでしょう?

 

岩戸山歴史資料館のパンフレットには、こう書かれています。

 

「戦いに敗れた磐井は、『古事記』や『日本書紀』には切り殺されたと記述されています。しかし、これら記紀は戦いの勝者であるヤマト側の立場を重視して書かれたものです。これに対し、「筑後国風土記」(逸文)には、磐井は豊前の国上膳の県(かみつみけのあがた:現在の豊前市周辺)に逃れたと記述されています。豊前市周辺には当時新羅からの帰化人が居住していたとも言われており、信ぴょう性の高い内容が一部含まれています。

また、磐井が逃れた経路の一部と思われる大分県日田市に所在する天満二号墳からは、筑紫君の象徴である「石人」の一部と考えられる石製品が出土していることから、筑後国風土記(逸文)の内容がある程度史実に即して記されていることを裏付けています」

 

こうして歴史の表舞台からは消えた磐井ですが、息子の葛子は朝廷に従い、その後も筑後の国一帯を治めていきます。この息子たちが築いたと考えられる古墳群も、今も八女市に残されています。

 

けれど、磐井の乱の後は、乱を制圧した物部麁鹿火らの一族・物部氏がこの土地に移り住んできます。こうして次第に九州は、大和王権に直接的に支配されていくようになるのです。

 

最後に筑紫の君の名を冠したことが確認できる人物は、筑紫君薩夜馬(さちやめ)。この人は白村江の戦いで唐・新羅連合軍の捕虜となりますが、671年、唐の新羅侵攻計画を伝えるべく、急遽帰国したことが日本書紀に記されています。

この時帰国が可能になったのは、同じく唐の捕虜となった大伴博麻(おおとものはかま)が、自らの身を奴隷に売り、薩夜馬他三人の帰国の支度を整えてやったからだと日本書紀に記されています。やがて博麻は大変な苦労の後、690年にようやく帰国を果たし、忠臣として賞賛を浴びることになります。

 

しかし、帰国後の薩夜馬がどうなったのかは正史には残されておらず、彼を最後に「筑紫の君」の名は、歴史から完全に消えてしまいます。

 

反乱軍の汚名を着せられたまま、歴史の闇に消えていった筑紫の君一族。けれど権力に屈せずふるさとを守ろうとした彼らの想いは千年以上の時を超え、今も九州の人々の中に受け継がれています。

 

時代は少し下りますが、同じように大和王権に滅ぼされた「阿弖流為(あてるい)」を、東北の人々が郷土の英雄として今でも慕っているのと共通するものがあるのかもしれません。

 

ちなみに『遠の朝廷にオニが舞う』の中でも、磐井の存在は大きな役割を果たしています。

興味を持ってくださった方は、ぜひ作品を手に取ってみて下さいね。

 

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

 

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