『神眠る地をオニはゆく』 史跡巡り 作品解説&エピソード

『神眠る地をオニはゆく』裏話その5~新キャラ編③(前半)

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

『神眠る地をオニはゆく』の裏話、今回は下巻に登場するあの方です。

その名は、田中長者。

この人物も、たまなぎの完全な創作ではなく、伝説に残る人物がもとになっています。

物語に関するネタバレはありませんので、安心してご覧下さい。

 

1.田中氏と『王城神社縁起』

田中氏は、今の太宰府市通古賀付近に住んでいた氏族です。

その名を最も多く見ることができるのは、太宰府にある古社・「王城神社」の縁起文です。

この神社は、天智天皇の代に創建されたと伝えられる、古い神社です。

以下「王城神社縁起」よりの抜粋・抄訳です。(筆者訳)

 

神武天皇が日向の国から東征し、筑紫の遠賀郡に来られた。田中の庄(粕屋郡)に荒気武彦という武勇の誉れ高い人がいたので、天皇は彼に軍事を任せて、東の従わない者たちを平定しようと考えた。武彦は喜んで天皇の仮宮を作り、娘しづ姫を仕えさせた。しづ姫は蚊田王(かだのおおきみ)という男の子を生んだので、この地を始王子(しおうじ)と呼び、山上に城を構えた。そこに田中熊別(くまわけ)という人を軍司として警護させた。

神功皇后が三韓征伐から帰って応神天皇をお生みになった時、蚊田王九世の孫・蚊田止摩(しま)という人を司として、田中熊別十一世の孫の熊丸が、お守り申し上げた。その後、百済使が都に上るための駅を置かれた時、熊丸にこの駅の司を任せた。これが日本駅路の始まりである。熊丸の子孫は蚊田の家を守って国の政務を司り、大宰府が置かれた時は郡司として駅の司を兼任した。

天智天皇の時、大野城を築き、山の上に参拝客がやってくるのを疎ましく思って、祀られていた事代主を国衙(こが)の庄に遷され、王城大明神とした。この頃の国司に虎丸(筆者注:藤原虎麿)、山上憶良らがいた。

 

東蓮寺の薬師仏は、田中熊秀という人が建立した。神仏習合により王城大明神の本地となった。

この田中氏は、王城神社の神官でもあったことが伝えられています。

 

2.太宰府に残る、田中氏の足跡

田中氏の足跡は、今でも太宰府の様々な場所に残っています。

 

田中熊別の墓があったと伝えられる、田中の森跡。

 

地名として残る、「田中」。この付近に現在「通古賀(とおのこが)」という地名が残っていますが、これは、「国衙(こが)」の「通路」に由来すると、『王城神社縁起』には書かれています。

  

 

同じく通古賀付近にある、「東蓮寺」の地名。寺の遺構は見つかっていませんが、地名の名で残っています。

 

線路越しに見える小さな山は、薬師山と呼ばれています。

1項に、「薬師仏が王城大明神の本地となった」とありますね。『神眠る地をオニはゆく』の時代より後になると、神仏習合が進み、「日本の神は衆生を救うために仏が姿を変えて現れたもの」という考え方が浸透します。この仏が本地仏です。「薬師如来=王城神社の神」とされた、ということですね。向こうに見える小山を、薬師如来に見立てたのでしょうか。

 

次回の記事では、王城神社以外の伝承も加えて、田中氏・藤原虎麿の実在性について検証します。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

 

 

 

 

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