はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
前回の記事では、『遠の朝廷にオニが舞う』『神眠る地をオニはゆく』両方の舞台の一つである水城を、最新の知見と共にご紹介しました。
今回はこれについてさらに考察を深め、大野城・基肄城の役割についても考え直したいと思います。
1.新発見の大宰府防衛ライン~大宰府は羅城だった?
これは前回のおさらいです。
2003年、太宰府市の南に隣接する筑紫野市で、前畑遺跡が発見されました。
その中に、尾根沿いに築かれた、7世紀の土塁が見つかったのです。
(画像は筑紫野市HPより(川訂正)現地説明会一般向け.indd (city.chikushino.fukuoka.jp))
この土塁は東側が急峻で切り立っており、東側からの敵の侵入を防ぐ構造になっていました。工法も水城と同じで、白村江の戦い後、大陸からの敵の侵入を防ぐという、同じ目的で作られたと考えられています。
そのため、大宰府は都市全体をぐるりと城壁や土塁で囲まれた「羅城」だったのではないか、という説が浮上しました。
真ん中の平野部が大宰府政庁を中心とする都市部、赤線が今回発見された土塁、黒の実践が既知の防衛線(大野城・基肄城・水城・とうれぎ土塁・関屋土塁)。
点線が、推定された土塁線です。
(画像は筑紫野市HPより(川訂正)現地説明会一般向け.indd (city.chikushino.fukuoka.jp))
前回の記事で、「こう考えると、大野城と基肄城の役割も、別の見方が出来るのではないか?」と書きました。本日はこれについてお話ししましょう。
2.大野城は博多湾からの敵・基肄城は有明海の敵の侵入を防ぐ目的で作られた?
福岡県の地図に、さっきの大宰府防衛ラインを手書きで加えてみました。
(汚くてすみません。多少の位置のずれはご容赦を。とうれぎ土塁と関屋土塁は小さくて書き込めなかったため省略しています)。
守るべき大宰府を背にして、見事に大野城は博多湾の方を、基肄城は有明海の方を向いているのが分かります。
※クリックで拡大します。
古代、大陸へのルートは、北部の博多湾~玄界灘を経由するルートと、西の有明海を経由するルートと二つがありました。
八女地方を本拠地としていた筑紫の君磐井は、有明海を経由して大陸・特に新羅と貿易を行っていたと考えられています。
大野城は北部ルートから攻めて来る敵、基肄城は西部ルートから攻めて来る敵に備えて作られたのではないでしょうか?
西部ルートは、筑後川という川幅の広い川が有明海に流れ込んでいます。
有明海まで船でやって来た敵が筑後川に入り、さらに支流の宝満川をさかのぼると、基肄城や今回発見された前畑遺跡の土塁のすぐ近くまで攻め入ることが簡単にできてしまいます。
もし仮に大宰府が羅城でなかったとしても、基肄城・前畑遺跡の土塁は、有明海から川をさかのぼって攻めて来る敵に備えて作られたと考えられないでしょうか。
しかし、基肄城の案内板は、博多湾~玄界灘に向かう形で作られています。この案内板が出来た頃は、前畑遺跡はまだ発見されていなかったから当然ですし、基山からは博多湾を望むこともできるので、北方からの敵に備えて作られたと考えられていたのでしょう。
今度基山に登ったら、有明海方面がどのくらいまで見えるのか、確かめてみたいと思います!(矯正視力0.9のド近眼ですが💦)
まとめ
大宰府は都市全体を城と城壁で囲んだ羅城だった可能性があり、大野城は北の玄界灘から攻めて来る敵に備えて、基肄城は有明海から筑後川をさかのぼって攻めて来る敵に備えて築かれた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!