目次
はじめに
皆さん今日は、たまなぎこと珠下(たまもと)なぎです。
初めての方は、初めまして。心療内科医でゆるく作家活動をしております、珠下なぎと申します。
さて、劇場版公開で大変盛り上がっている『ベルサイユのばら(ベルばら)』界隈。
ですが、ベルばらアニメ版といえば昭和時代に全40話でテレビ放送でアニメ化されたものがあまりにも有名。テレビアニメ版でしかベルばらを知らない人も多いのです。
今回の劇場版は、テレビアニメ版でしかベルばらを知らない層が見ると、かなり違いを感じる内容。これが色々物議をかもす元になっているようです。
昭和アニメ版について
ベルばらは宝塚での大ヒットに加え、昭和時代にテレビアニメ化されました(放映は1979~80年)。
こちらは30分番組で全40話。
作画・キャストとも当時の最高レベルが集結され、大変評価の高い作品です。
しかし、特に後半、(アニメ版の)主人公であるオスカルと、最終的にオスカルと結ばれるアンドレに、かなりのキャラ変更が加えられています。
詳しくは↓
一方、今回公開された劇場版は大変原作に忠実。
原作者の池田理代子先生も、「私が言いたかったこと、描きたかったことを全部描いて下さった」(劇場版パンフより)と絶賛されています。
ここに至って、ベルばらは原点に回帰したともいえるのですが、その分、TVアニメ版で改変された部分が浮き彫りになり、原作ファンからの手厳しい批判が目立つようになりました。
一方で、TVアニメ版でしかベルばらを知らない、もしくは原作を一応読んでいてもTVアニメ版に思い入れの強い層からは、「劇場版は改変されている」と批判が噴出、両者が対立してしまうという憂慮すべき事態になっています。
原作ファンがなぜ看過できないか
改変されたオスカル像とその行動原理
私が昭和アニメ版を見たのは、放映から10年以上たってから。時代は既に平成、10代半ばの頃でした。
繊細で美しい映像、素晴らしい音楽、キャストの美声と名演に酔いしれたものの、どうしても違和感を禁じえなかったのは、オスカルがあまりにも「悲劇的な女性」として描かれていることでした。自分の意志に反して無理やり男としての生を強いられ、傷つき、アンドレと結ばれてつかの間の女としての幸福を得るも、翌日にはアンドレを失い、命をかけたバスティーユ陥落さえ見届けられずに亡くなってしまう。
原作の「自己の真実のみに従い、一瞬として悔いなく与えられた生を生きた」オスカルはそこにはいませんでした。
今にしてふり返ってみると、昭和アニメ版では、オスカルの行動原理は、全て「女性としての感情によるもの」と改変されていました。
たとえば、原作では明らかにされていない「衛兵隊への転属理由」。これは、宝塚やアニメ版では「民衆のことを知るため」と解釈されていますが、アニメ版では「フェルゼンに失恋して自棄になった」と改変(ここはもう少し考察の余地があると思いますが、長くなるので別の場所で)。
もうひとつ決定的なのは、多くの方が指摘されているように、フランス革命勃発日の7月13日。オスカルは革命側に身を投じるのですが、それは「アンドレの意志に従って」ということにされています。
これは10代の私でも「?」と思いました。
原作のオスカルは、ルソーを読み、その思想を学び、「人間は自由であるべきだ」という結論に至り、自らの意志で革命に身を投じます。
自ら時代の思想を学び、熟考し、自らの意志を育て、その思想に従う。それがオスカルですが、この過程は見事に昭和アニメ版からはカットされてしまいました。
一方、令和劇場版ではこの過程がきちんと描かれています。
衛兵隊と対立したオスカルが、「心は自由だ、お前たちを権力でおさえることはしない」と涙ながらに叫び、衛兵隊士たちとの心をつかむシーン、革命前に「自由なのは心のみにあらず」と衛兵隊士の前で演説するシーン、バスティーユ陥落を見届け、「自らの人生に満足している」と独白して死を迎えるシーン。
原作者の池田理代子先生も、インタビューで、これらのシーンを指して、このように述べられています。
私は、「自由とは何か?」をはじめとして、色々な考えや主張を全てオスカルに言わせていたのですが、劇場版ではそれを余すことなく表現して下さった。(令和劇場版パンフレットより)
これらは全て、昭和アニメ版ではカットされたシーンです。
ベルばら原作ファンの少女たちが求めた、時代のヒーローとしてのオスカル
ベルばら原作が描かれたのも、アニメが放送されたのも、男女雇用機会均等法(1985年施行)より前。その時代、まだ女性の就労は限られ、結婚したら退職という「寿退社」、その後は子を産み育てて、多少理不尽なことがあっても夫に従う、というのが平均的な女性像でした。
そんな中現れた、「自己の真実のみにしたがい、悔いなく人生を全うする」オスカルは、男装の麗人としての魅力もさることながら、性別に囚われず、一人の人間として自立した女性の理想像としても、女性たちの憧れの的となったのではないでしょうか。
しかし、昭和アニメ版では「一人の人として自立した女性」としての部分が見事なまでにカットされ、「時代に翻弄された悲劇的な女性」の枠に押し込められてしまった。
当時そこまで明確な言語化はされなかったかもしれませんが、さらに時代が進んで令和になり、女性の自立が進むと、この「女性の枠に押し込められた」オスカル像が、原作ファンには耐えがたいもの、女性蔑視の象徴として映ったのも仕方がないかもしれません。
昭和アニメ版が作られた時代をもとに検証する
昭和アニメ版が作られた時代とは
昭和アニメ版を、「男女差別的だ、原作への冒涜だ」と批判するのは簡単です。しかしその原因を、単に制作陣、特に監督の性差別思想にのみ求めることは果たして妥当なのか。
そう考えてたまなぎはこの記事を書きました。
ちょっとここで当時の時代を見てみましょう。
1960代 学生運動とその終焉
1972~73『ベルサイユのばら』マーガレット連載
1974~76 ベルばら宝塚初演、大ヒット
1979 国連で女子差別撤廃条約が採択
(日本ではさだまさし「関白宣言」が大ヒット)
1979~80 ベルばらアニメ版TV放送
1985 日本における女子差別撤廃条約締結
1986 男女雇用機会均等法施行
1960年代の中で女性解放運動も盛り上がりますが、1970年代以降、過激化した学生運動は忌避されるようになり、日本における左翼は力を失っていきます。1986年には男女雇用機会均等法が施行されますが、これは日本における女性解放運動の結果というよりも、国連が採択した女子差別撤廃条約の流れで制定されたものでした。
昭和アニメ版ベルばらとその時代
昭和アニメ版ベルばらの監督は、革命思想には懐疑的だったと言われています。
原作ではベルナールのもとに身を寄せており、オスカルとも面識のあったサン=ジュストが、アニメ版では「血に飢えたテロリスト」として描かれているのもその象徴かもしれません。
それは監督個人の思想もあるかもしれませんが、学生運動の過激化と挫折を経験したばかりの時代にこのアニメが作られたことを考えると、また違った見方が出来るのではないでしょうか。
原作者の池田理代子先生自身は、学生運動には疑問を感じていたとご自身で言われています。
しかし、学生運動・女性解放運動が盛り上がった時代を経て、「民主主義のさきがけであったフランス革命に身を投じた」「自立した女性である」オスカルというヒーロー(ヒロインではなくあえてヒーローと書く)が、女性の手によって出てきた。
(オスカルは男性としての生を強いられますが、それによって性別から自由になり、一人の人間としてより自由な、自立した生を手に入れます(詳しくはこちら↓))
それを、男性監督が「悲劇の女性」としての枠に押し戻した。
この改変は、時代から見ると、学生運動・女性解放運動に対してのひとつの「揺り戻し」として行われた、と見ることも出来るのではないかとたまなぎは思うのです。
それまで「女」という生き物だと思っていたものが、急に思想と自由を持った「人間」のような顔をして前面に出てきた。それに対して、当時の社会は、本能的な嫌悪と恐怖を感じ、既存の枠の中に原作を押し戻したようにも見えます。
実際、そういった目で見ると、旧アニメ版は周到な筋書きで、男性として生きたオスカルを女性の枠に戻そうとしているように思われます。
象徴的なのが、令和劇場版ではコンプライアンス的にカットされた、ビリビリシーン。
原作では、フェルゼンに失恋したオスカルを見かねたアンドレが、思い余って積年の愛情を告白、実力行使をしようとしてオスカルに拒まれ、我に返って謝罪する、という流れになっています。
ところが、旧アニメでは、フェルゼンに失恋し、自棄になって「男として生きたい、そのために近衛隊を辞める」というオスカルに、アンドレは、「バラはライラックにはなれない(女は所詮女だ)」と忠告、激高したオスカルがアンドレを平手打ち、それに対してアンドレが実力行使、我に返ってとどまった後、オスカルに告白する、という流れです。
アンドレの暴走がどんな感情から来たものかさえ分からなかった旧アニメ版のオスカルは原作よりも恐ろしい思いをしたでしょうし、このシーンはより暴力的で、「女であることを分からせてやる」と言わんばかりのシーンになっています。
この時の「それで(私を)どうしようというのだ、アンドレ」というオスカルのセリフも(()内は旧アニメ版のみ)、ほぼ同じ、ポーズも同じながらもオスカルの表情は微妙に異なります。
原作では悲しみとあきらめに満ちたような表情でした。この時のオスカルは、それでもアンドレの目のことを心配するなど、アンドレの暴走にもかかわらず、アンドレへの深い信頼と絆は揺るいでいないことを思わせました(実際その後もアンドレをそばから離しません)。
旧アニメ版では、恐怖と嫌悪、屈辱に満ちたような表情で、その後アンドレを遠ざけるようになります。ここでも、オスカルの行動は、女性としての感情によって決定されています。そしてアンドレと結ばれたのちは、アンドレに対して「従順な妻」になる。
これは、ソフトではありますが、シェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」を連想させます。奔放な女性を男性が恐怖や暴力によって支配し、従順な妻に変えていく。女性は男性に愛され、従うことが幸せで、本来のあるべき姿だという強いメッセージが感じ取れるのです。
X(旧Twitter)を見ていると、旧アニメ版ファンで令和劇場版をけなす人には男性が多い気がする(違っていたらすみません)のですが、こう考えると納得です。
昭和アニメ版も擁護できる点はある
しかし、昭和アニメ版にも擁護できる点はあります。
「昭和アニメ版ではアンドレがオスカルを革命思想に引っ張った」というのは言い過ぎかもしれません。
昭和アニメ版でのオリジナルエピソード、オスカルがアラスの領地を視察し、民衆の窮状を知るシーンなどは、オスカルが古い体制に疑問を持つことの伏線になっています。
アンドレは、黒い騎士事件の前後、自分で民衆の勉強会に参加したり、革命前夜、ベルナールの演説を聞いたりしますが、「俺たちと一緒にやろう」というベルナールの誘いについては黙殺し、あくまでオスカルのそばにいることを選びます。アンドレにとっては何よりも優先すべきはオスカルである、というところはブレずに守られているともいえます。
最後の「アンドレ、命じてくれ」というオスカルの要望に対しても、アンドレはオスカルの心の内を察し、オスカルが一番望む答えを出した、と言えなくもありません。といっても、原作のオスカルはアンドレに答えを求めたりはしない、というところは変わらないのですが……。
一言で言えば、時代がベルばらに追いついた。
ダラダラと長く書きましたが、一言で言えば、「時代がベルばらに追いついた」ということです。
50年前描かれた原作は、民主主義と女性の人としての自立を描いた、まさに時代の先端でした。
しかし、それは50年前には理解されず、旧アニメ版ではオスカルは「性別に囚われず人として自由に生きた」人物から「時代と男性に翻弄された悲劇の女性」へと、当時の時代背景に合った人物像に改変されてしまいました。
しかし、経済的に自立した女性が増え、性別的役割に囚われず、一人の人間としての生を追求する女性が増えた令和の今、オスカルというヒーローは再び見直された。
原作に忠実な新たな劇場アニメ版が生まれることが出来たのは、時代が進んだおかげと言えるかもしれません。
一方で、ベルばら原作・旧アニメ版・令和劇場版を巡る論争や対立は、これからも続くかもしれないと思います。
特に、原作は民主主義の萌芽であるフランス革命が肯定的に描かれ、性別に囚われず自由に生きるオスカルという女性が主人公の一人であり、まさにリベラル思想の象徴ともいえます。
SNSなどでは自分と対立する意見を目にすることも多いと思いますし、それによって嫌な思いをすることも増えるかもしれません(このブログを読んで嫌な思いになる方もいるかもしれません)が、ベルばらのように歴史を扱った作品(そうでなくてもすべての芸術作品には政治的主張が含まれるといっても過言ではないのですが)には、それは避けて通れないものです。
一ファンとして、これからの時代とベルばらを見つめ続けていきたいと思います。
まとめ
・ベルばら旧アニメ版では、オスカルは「悲劇の女性」として描かれ、原作の「自由で自立した一人の人間」とはかけ離れた人物造形になっている。
・令和劇場版は「私の言いたかったこと、描きたかったことを全て描いてくれた」と原作者からも絶賛されている。
・旧アニメが改変された原因には、旧アニメが作られた時代背景も大いに関連があるかもしれない。
・令和の今になって、原作に忠実なアニメ版が作られたのは、時代が進んだおかげといえるかもしれない。
・旧アニメ版・原作・劇場版をめぐる論争や対立はこれからも続くかもしれないが、それは歴史を描いた作品にとっては避けて通れないものともいえる。
ベルばらについては他にもいくつか記事を書いています。気になった方はご覧下さい!
最後までお読み下さり、ありがとうございました!