目次
はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
昨年末、九州歴史資料館で開催された『筑紫君一族史』のレポート。
さて、今回はいよいよ時代区分でいえば最終回。磐井の乱の後の時代をご紹介します。
今までの記事をお読みでない方は、まずはこちらからどうぞ。
筑紫国造の時代
屯倉の設置と筑紫国造
6世紀前半、磐井の乱で筑紫の君磐井が滅ぼされた後、磐井の息子葛子は、粕屋の地を継体天皇に差し出し、死罪をまぬかれます。
粕屋の地には「評」が作られます。「評」とは、孝徳天皇治世下で成立した地方の行政組織です。
粕屋の「評」は屯倉(みやけ)を母体として組織されていきます。屯倉には穀物などが貯蔵され、有事に備えられました。
磐井は殺されましたが、磐井の子孫は「国造」として、八女地域を中心とした統治は保証されました。
しかし、討伐軍を担った物部氏・大伴氏も筑紫に進出し、領地の一部は彼らに割譲された上、様々な決定権は彼らが握っており、筑後国造にはさほど大きな権限はなかったと考えられるということです。
写真は粕屋の屯倉から評への整備が進んだ時代の阿恵遺跡からの出土した須恵器(7世紀中頃)です。
盾持つ埴輪~武人の活躍
磐井の乱の間にも、朝鮮半島の動乱は続いていました。
そもそも磐井の乱のきっかけは、百済へ派遣しようとしたヤマト軍を、磐井が妨害したとされたことにあったことでした。
朝鮮半島では加耶諸国が新羅に併合され、救援しようとする百済との間で攻防を繰り広げていました。百済の聖明王が新羅・高句麗と戦った時は、ヤマト王権も参加しています。
この時、筑紫国造で弓の名手と言われた人が百済皇子余昌の救援で活躍しており、後に「鞍橋君」の尊称で呼ばれています。
この時代の様子を示す埴輪が、八女市の福岡県立八女高校に保存されています。
盾持つローハンの乙女(←混ぜるな危険©トールキン『指輪物語』)。
ならぬ、盾持つ人の埴輪です。下の方は復元ではないかという指摘をうけましたが、おそらく本物であろう胸のあたりの部分にも、楯に刻まれた文様が見て取れます。何らかの呪術的意味をこめたものかもしれません。
虐げられた豊の君の末裔?~史上最古のブラック上司からの呼び出し状
有明首長連合の首長たちも、磐井の乱後、ヤマト王権の支配構造により強く組み込まれています。
少し後の時代ですが、筑紫の君磐井に最後まで味方したと考えられる、豊の君の後裔がブラック上司から呼び出しを受けた時の呼び出し状が残っています。
呼び出したのは、豊前国企救郡大領(長官)の物部臣今継。呼び出されたのは、税長の膳臣(かしわでおみ)澄信。
内容は、次のようなもの。
「膳臣澄信は昼夜を避けず官舎を視護り仕えるべきであったのに、十日の間、宿直しなかった。その日の朝早くに郡家に延怠ことなく出頭するように」
うーむ。「昼夜を避けず」が文字どおり24時間365日労働という意味かどうかは分かりませんが、かなりブラックには間違いない。
解説文には、澄信は「磐井の乱で磐井に味方した豊前の膳臣の末裔であろう」と書かれています。
また、「『日本書紀』景行天皇12年9月の条に、筑紫聞物部大斧手の名も見える」と書いてありましたが、現代語訳の「日本書紀」には「物部君の祖・夏花」と「国前臣の祖・菟名手」の名しかありませんでした(?)。版によって違うのでしょうか。ここはよく分かりません。
いずれにせよ、物部氏が、豊の君の子孫をこき使っていたことには変わりなさそうですね。
最後の筑紫の君・薩夜馬と白村江の戦い
白村江の戦い
7世紀半ば、とうとう、朝鮮半島の動乱に日本も大きく巻き込まれます。
それは、白村江の戦い。
日本は新羅に滅ぼされた百済を救援するために、船を建造し、筑紫を中心に大軍を組織して朝鮮半島に乗り出します。
ところが結果は大敗。
多くの兵士が殺されたり捕虜になったりし、朝廷軍は撤退します。
この時捕虜になった人の中に、「筑紫君薩夜馬(麻)」と「大伴部博麻」がいました。
薩夜馬は、「筑紫君」として、最後の名が残る人物です。
薩夜馬は、唐の捕虜になっていましたが、唐の計画を倭国に伝えるため、唐を脱出し、671年に帰国を果たします。
この時、薩夜馬の脱出を助けたのが、後の上妻郡(現在の八女市上陽町)に住んでいた、大伴部博多麻という人でした。名前からして、大伴氏の部民だったと考えられます。
彼は薩夜馬らの脱出を助けるため、奴隷に身を売り、690年になってようやく帰国します。
下は博麻が帰国した時の日本書紀の記事。白村江の戦いの時に帝位についていた斉明天皇は既に亡く、その子の天智・天武帝も死去、世は孫の持統天皇の時代になっていました。
彼は最初の「愛国者」として持統天皇に称えられます。
八女市上陽町には、この人の資料が今でも残っています。
筑紫国防の時代
白村江の戦いで日本軍は破れ、その前夜に斉明天皇も病死します。
跡を継いだ中大兄皇子は、筑紫に大規模な防衛機構を作ります。
大宰府を守った長大な濠、水城。
朝鮮式山城、大野城・基肄城。
奈良時代の木簡にも「基肄城」の文字が見えます。
これにも面白いことが記されています。
筑前・筑後・肥の国に供給するために、基肄城に蓄えられていた米を放出するよう、田中朝臣に命じたものです。
田中氏は、拙著『神眠る地をオニはゆく』にも登場する地元豪族。
王城神社の創始者で、その祖は神武天皇に仕えたとされ、磐井の残党とも戦った記録があります。
田中氏の子孫は、一定の地位を得て働いていたことが分かります。
まとめ
・磐井の乱後、筑紫君の子孫は国造とされ、一定の統治権を保障されたが、実権は物部氏や大伴氏が握っていた。
・筑紫君の系譜は白村江の戦いで捕虜になった薩夜馬(麻)を最後に途絶えている。
・大宰府の地元豪族田中氏は、奈良時代にも大宰府で地位を得て働いていたと推定される。
白村江の戦いの流れについては、こちらにも分かり易くまとめていますのでよかったらご参照ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。