『ウラヤマ』試し読みページ

目次

主な登場人物

序章 心霊トンネル

第一章 謎の老人

第二章 異変のはじまり

第三章 いさかい

第四章 迫りくる怪異

第五章 時をさかのぼって

第六章 時の止まった部屋

第七章 ウラヤマの謎

第八章 闇との闘い

終章 闇からの伝言

紙書籍限定版おまけ 妖怪と幽霊のちがいって……(※紙書籍版のみ)

あとがき

 

主な登場人物

香月諒太(かつきりょうた)・・・・・・主人公。F大付属中学一年生。心霊マニア。

志岐健人(しきけんと)・・・・・・諒太の同級生。サッカー部に所属するスポーツ少年。

野見山拓海(のみやまたくみ)・・・・・・健人の幼なじみ。医者一家の息子。

野見山聡(のみやまさとる)・・・・・・拓海の兄。医学部六年生。

末安勲(すえやすいさお)・・・・・・元炭鉱夫。

 

序章 心霊トンネル

トンネルの中に一歩足を踏み入れると、足先にぶよぶよした感触が伝わった。苔を踏んだらしい。とたんに全身に鳥肌が立った。

真夏とは思えない寒さなのだ。懐中電灯で壁を照らすと、ひび割れた灰色のコンクリート。表面には、黒っぽい人の顔のようなしみが浮かんでいた。

床には、数体の鼠の死体。砂に半ば埋もれているもの。白骨化しかけているもの。異臭が鼻をつく。床はかなり急な下り坂だ。下り坂の先は真の闇。ライトの光も飲みこんでしまう、奈落の闇だ。かすかに水のしたたる音が聞こえてきた。

 

「うわぁ、いかにも心霊スポットって感じ。気味悪りぃ」

志岐健人が声を上げる。健人と中学の同級生の香月諒太は、そっと健人の背中から顔を出した。トンネルの奥に懐中電灯を向けるが、何も見えない。闇は濃く深い。懐中電灯の光など、ほんの数歩先までしか届かない。

今度は上にライトを向ける。垂れ下がる蜘蛛の巣の残骸、ゆがんだ形のしみ。すきまから何かがはい出してきそうな、長い亀裂。引きちぎられたケーブル。ケーブルに不規則な赤黒い水玉。液体が飛び散った跡のような。

それにしても寒い。ここまで外と気温がちがうのか。まだ数歩入っただけなのに。息が白く凍る。冷えた汗が、またたく間に体温をうばっていく。諒太は二の腕を手のひらでこすった。

健人の声が、下り坂のトンネルにこだまし、不気味なエコーを返してくる。

諒太はそっと健人の肩をたたき、静かに、と唇に手を当てて合図した。

健人はちょっとめんどうくさそうな顔をした。でも、その顔には期待感があふれているのが分かる。よく日に焼けた精悍な顔の中のくっきりした目が、きらきらと輝いている。

諒太は腕にはめた寒暖計をちらりと見て、小さく声を上げた。急いでスマホで寒暖計を撮影する。その間にも、健人はさっそく先に進み始めている。諒太もあわてて後を追った。

きつい勾配の下り坂。転べばすべり落ちそうだ。足元を照らしながら、一歩ずつ足を踏みしめる。闇を分けるスポットライトの輪に、様々なものが映し出される。腐った木切れ。ロープの切れはし。汚れた布切れ。古ぼけたヘルメット。錆びついたボルト。釘。ドリルの刃。錆びた鉄の臭い。血と同じ臭いだった。

散乱した過去の遺物。歩くのにじゃまだ。気をぬくと転びそうになる。すべった足が砂利をけとばす。砂利はたちまち、奈落の闇に吸いこまれていった。

少し間をおいて、砂利がコンクリートにぶつかる音。音が何重にも反響する。乾いた音が空間を支配する。なかなか収まらない。目に見えないだれかが走り回っているようだ。トンネルの深さのせいか。それだけとは思えなかった。

「マジ、何かいそうだな」

健人が小さな声でつぶやく。諒太は思わず健人のシャツにしがみつく。健人のシャツは、汗にぬれて冷たかった。

「大丈夫、何かあったらすぐ逃げればいいさ」

健人は諒太にささやきかける。勇気づけるように、軽い口調だった。

二人は再び歩き始める。数歩先は真の闇だ。

二十メートルも坂道を下っただろうか。少し勾配がゆるやかになり、歩きやすくなった。

懐中電灯を壁に向けてみる。そこにはやはりコンクリートの壁。亀裂から赤っぽい地下水がしみ出している。まるで血のにじみだす傷口のようだ。心臓の鼓動がのどの奥を打ち始めた。

突然、足が何かを踏んだ。やわらかい感触。続いて湿った音。足元に懐中電灯を向けると、まだ新しいネズミの死体。諒太の靴につぶされたのだった。

破裂した腹。飛び出す内臓。ネズミの毛が赤黒く染まる。ただよい出す生ぐさい臭い。ぐうっと吐き気がこみ上げてきた。

吐き気をこらえて靴底を壁にこすりつける。壁のすぐそばににごった水たまりがあって、懐中電灯の光をはね返してぬらぬらと光っている。水たまりのふちに、大きなヤスデが数匹はいまわっている。無数の足が威嚇するようにうごめく。

気味の悪い生き物から目をそらすように、懐中電灯を横に移動させる。コンクリートの壁。そこにも地下水がしみ出していた。
諒太はふと手を止めた。赤い地下水のしみが、何かの形に見える。長径五センチほどの円に近い楕円形がひとつ。その楕円形の上半分から放射状に少し離れて、細長い楕円形が五つ。いずれも短径一センチ、長径は真ん中のものが最も長くて五センチくらい。はしの二つは二センチほど。

血にぬれた手のひらを押し付けたかのようだ。

心臓が暴れだす。健人がふり向いた。

諒太の全身ががたがたふるえ出す。だが、せっかくここまで来たのだ。それでも健人にライトで照らしてもらいながら、スマホのシャッターを切った。何か映っているかもしれない。写真を撮ると、すぐにライトをしみからそらしたけれど。

すると隣に同じようなしみが浮かび上がる。ほぼ左右対称の形の……。

激しさを増す心臓の鼓動。胸が痛い。息が苦しい。吐き気の残るみぞおちが、圧迫される。さらに気持ちが悪くなる。さすがにもう帰りたくなった。その時だ。

「ッタ。…ラ…ッタ。……ハラ、ヘッタ」

妙な声が、耳元にささやいた。聞き取りにくい、かすれた声。

「腹減った? こんな時に何言ってんだ諒太。食いものなんかないぞ」

健人がこちらをふり返った。え。今の声は健人じゃないのか。

「今の? ぼくじゃないよ。何も言っていないよ」

「何だって。確かに聞こえたぜ。腹減った、って」

諒太がもう一度聞き返そうとしたそのとたん。

健人が声を上げてうずくまった。

「どうしたの、健人くん!」

「足が! 足が痛い!」

サッカー部でしょっちゅう固いボールをけっている健人がうずくまるほどとは。ただごとではない。諒太はあわてて健人にかけより、そばにかかがみこんだ。その瞬間、諒太のすぐ鼻先を、赤黒い影が横切った。

影がジャンプする。トンネルの壁めがけて。と思うと姿がない。壁に吸いこまれたように消えてしまったのだ。ライトに異様なものが浮かぶ。それは影が消える直前だった。

 

――赤く染まった足の裏がふたつ。はっきりと目に焼き付けられた。

 

「うわあ! 出た!」

もう限界だった。

まずい。逃げなければ。健人がうめき声を上げながらも先に立ち上がり、諒太の手を引っ張って立たせてくれた。急坂を必死でかけ登る。入り口が遠い。足が砂利に取られそうだ。その度に、必死で態勢を立て直した。

何かが追いかけてくる。すぐ後ろだ。荒い息づかい。砂利をけとばす音。響く足音。まずい。捕まってしまう。のどがヒューヒューと鳴る。会話を交わすこともできない。

健人に引っぱられるようにして、諒太は入り口を目指してひたすら走り続けた。

 

第一章 謎の老人

一 学校

「だから本当だって。あの心霊スポット、壁に血染めの手のひらの跡があったんだ。その近くで変な声がして、赤っぽい人影が壁に吸いこまれていったんだって。まるでプールに飛びこむみたいに。真っ赤な足の裏がはっきり見えたんだよ!」

翌日、諒太は自習のために登校した。十二時になると三々五々、自習に来ている同級生たちも昼食をとり始める。ちょうど部活が終わった健人も合流して、昼食休憩となったその矢先。教室で、健人が興奮してまくしたて始めたのだった。

県下有数の中高一貫私立校であり、進学校としても全国的に有名なF大付属中学では、夏休み中も自習室として教室が開放されている。男子校なので、男子ばかりに囲まれて勉強するのは少々暑苦しい気もするが、同級生がいた方が適度の緊張が保てるからと、夏休み中に登校する生徒は多かった。中学受験を終えたばかりの諒太たち一年生も例外ではない。

健人の前で机にもたれかかり、あきれた顔をしてパックのオレンジジュースに口をつけているのは、健人の小学校の時からの友人の、野見山拓海だ。

拓海は健人ほど長身ではないが、均整の取れた体つきをしている。細面の顔、通った鼻筋に銀縁の眼鏡をかけ、眼鏡の奥の目は、いつも理知的な光をたたえている。父親は市内で精神科を開業している医者で、母親は市内の病院に勤めている勤務医、少し年の離れた兄は医学部の学生という医者一家の次男だ。

健人と拓海は小学校時代からの友人だが、諒太は拓海とはあまり親しいわけではなかった。むしろちょっと苦手だ。拓海は勉強も運動も何でも器用にこなす。ところが諒太の方は勉強は好きで得意、成績は学年首位を争うほどだが、運動神経の方はクラスどころか学年、いやひょっとしたら学校中でビリを争うほどのひどさだった。そのせいで小学校時代はからかいの的になったり、仲間外れにされたりしたこともある。もともと友人も多い方でなく、同じ小学校から進学した同級生もいない。

そんな諒太に、屈託なく勉強を教えてくれと頼んだのが健人だった。健人は、諒太の運動神経の悪さも笑ったりせず、逆に「勉強はめちゃくちゃできるのに運動が苦手とか、何か、かわいいじゃん」など、今まで聞いたことのない言葉で諒太を安心させてくれたのだった。

拓海は別に、諒太に表立って意地悪をするわけではない。けれど小学校時代からのコンプレックスもあって、拓海のようなタイプには、何だかバカにされるのではないかと身構えてしまうのだった。

「まったく、昨日は学校に来てないと思ったら。心霊スポット探検かよ。いくら夏休みだからって、羽目外し過ぎだぜ。いつまで小学生のつもりなんだよ。お、健人、ずいぶんかわいい弁当だな。おばさん? それとも花梨ちゃんか?」

拓海は、もうこれ以上この話に興味がないといったふうで、健人のお弁当箱をのぞきこんでいる。花梨というのは小学校五年生になる健人の妹らしい。

すると、健人は慌てて弁当の中身を箸でグチャグチャにかき混ぜながら、おかずを口いっぱいにほおばった。

あーもったいない、と諒太は思う。一瞬見えた弁当箱の中身は、星型や丸型に抜かれて、カラフルなふりかけと海苔で飾|られたおにぎりに、花型にんじんのグラッセ、きれいな小判型のハンバーグに、半分に切ってハート型に見えるようにならべた卵焼き。唐揚げ、ミニグラタン、ポテトサラダに鮮|やかな緑のブロッコリーとプチトマトがいろどり良く詰められている。ハンバーグも手作りらしい。いかにも手間のかかっていそうな弁当だ。

「両方だよ。花梨のやつが夏休みでヒマだから。全くあいつら、人の弁当で遊びやがって」

それはちょっとぜいたくなんじゃないかなあ。半分本気で腹立たしそうにおかずをかたっぱしから口に詰めこんでモグモグしている健人を見ながら、諒太は心の中でそっとつぶやいた。毎日お弁当を作るのって大変なんだぞ。特にこの季節は食中毒にだって気をつかうし。こっそりそう思いながら、諒太は自作のおにぎりをほおばった。うん、良い出来だ。以前塩と砂糖をまちがえて、甘いおにぎりを作ってしまったことは二人には内緒だ。

ハートと星がキラキラしたお弁当は、中一男子としてはちょっと恥ずかしいのは、分からないじゃないけど。

「そう言うなよ。好きで自習に来てるのに、弁当まで作ってくれるなんてありがたいじゃないか。けっこう大変なんだぞ、毎日の弁当づくりなんて」

意外なことに拓海も、諒太と同じことを考えていたようだ。拓海の両親も共働きだから、弁当作りの大変さは理解しているらしい。このことについては諒太も拓海の意見に完全に賛成だ。

すると健人は厚めの唇をぷっととがらせた。

「そりゃ弁当作ってくれるのはありがたいけどよ。完っ全に花梨のおもちゃになってるんだぜ。このままじゃそのうち、プ○キュアのキャラ弁でも作ってきそうな勢いなんだから」

おっと、前言撤回だ。諒太はおにぎりをふき出しそうになるのをかろうじてこらえた。プ○キュアのキャラ弁なんて友だちに見られたら、恥ずかしくて死ねる。

すると拓海は、わざとのようにとぼけた顔をして健人に問いかけた。

「ふうん、プ○キュアはダメなんだ? じゃあ今度花梨ちゃんに会ったら言っとくよ。健人はオトコノコだから、どうせキャラ弁作るならプ○キュアじゃなくて仮面○イダーにしてくれって」

ぶっ。諒太は再びおにぎりをふきそうになった。それはないだろう。冗談で言ってるのは分かるけど、意地悪だな。

「あのなあっ! そういうこと言ってんじゃねえっての! オレが作って欲しいのはふつうの弁当だよ、ふつうの! キャラ弁が恥ずかしいっての!」

あんのじょう健人が拓海に食ってかかる。でもその様子は、大型犬がじゃれかかっているようにしか見えなかった。なんだかんだ言ってこの二人は仲がいい。その間には何となく入っていけない気がして、諒太はおにぎりを咀嚼することに集中した。

健人はむすっとしておにぎりを飲みこむと、大きな目でぎろりと拓海をにらんだ。

「オレの弁当なんてどうでもいいだろ。それより昨日の話だよ。な、諒太。おまえも見ただろ。おまえからも話してくれよ」

健人は拓海の視線からお弁当を隠すようにしながら、大急ぎでお弁当の中身をやっつけ始めた。

拓海が眼鏡の奥の切れ長の目を諒太の方に向ける。心なしか、健人に向けられる視線よりも冷たく感じる。バカにされるだろうな、と思ったけれど、ここで引き下がりたくはなかった。健人も諒太も実際に体験したことなのだから。

諒太はお茶を一口飲んでのどをうるおしてから、拓海に向き直った。

「本当だよ。ぼくも見たんだから。変な声が聞こえたと思ったら、急に健人くんが足が痛いってうずくまったんだ。ふつうじゃない痛がり方で。そしたら健人くんのすぐ前を、だれかが横切ったんだよ。歩いているっていうより、かけぬけたって感じだった。ぼくには赤っていうか、ピンクっぽく見えたんだけど。そして、そのまま壁の中に消えちゃったんだよ」

「ふーん」

拓海は、気のない様子でパックのオレンジジュースをキュッと吸い上げた。

「心霊スポットなんて、まだ信じてるのかよ。まったく、中学生にもなって……」

「だから、ふつうじゃないことが起こったから言ってるんだよ」

「ふん、ベタな怪談みたいだな。諒太、念願の{幽霊|ゆうれい}に会えて感激したかい」

「拓海くん、からかわないでよ。ぼくだって、こういう話好きだけど、実際に見たのは初めてなんだ。ふつうにパニクるに決まってるでしょ」

ぷっと頬をふくらませた諒太を、拓海は無視して健人に向き直った。

「だけど、おまえがぶつけたくらいで痛がるなんて珍しいな。結局、足はけがしてたのか?」

「それより続きだよ。二人で逃げ出したら、後ろから誰かが追いかけてきたんだぜ。息づかいも足音も、はっきり聞こえたんだ。だから、トンネルから出ても、後ろを確かめるどころか、とにかく必死。気が付いたら、二人で駅の待合室でのびてたんだ。逃げるのに必死で足が痛いのなんて忘れてたけど、トンネルでとんでもなく足が痛かったのは本当だぜ。爪がはがされたかと思うほどだったんだから。でも、その後は嘘みたいにどうもないんだ。ふろで見たけどどうもなってなかったし。かえって気味悪いよな」

「ふーん。足音って、諒太の足音だったんじゃないか。きみたち二人が走って逃げれば、必然的に健人の方が前を走るだろ。怖い怖いと思ってるから、後ろから走ってくる諒太が、追いかけてくる幽霊にでも思えたんだろ」

「悪かったね、足遅くて。でもぼくも聞いているんだよ。その足音。ぼくの後ろから、砂利をける足音が、はっきり聞こえたんだ。だから何かいたのはまちがいないよ。それからね」

諒太は制服のポケットから、スマホを取り出した。「写真」のアイコンを開いて見せる。
最初に諒太が示したのは、トンネルの入り口。蔦がからみつき、錆びかけた金網におおわれているが、特に何も変わりない。金網の一部は壊れ、人ひとりが出入りできるほどのすきまがあるのだが、この写真からでは分からない。

次に諒太は一枚写真を飛ばして、トンネルの内部を映したものを示した。血染めの手のひらを押し付けたような、赤っぽい壁のしみが、はっきりと映っている。

さすがに不気味に思ったらしく、拓海が顔をしかめたが、すぐに反論してきた。

「鉄分を含んだ水が、赤っぽく見えてるだけだろ。地下水にぬれた手を壁についたりしたら、こんな風に見えてもおかしくないよ」

拓海の言葉は諒太の予想どおりだった。諒太は拓海を無視すると、さっき飛ばした写真にもどった。諒太が示したのは、大きめの腕時計に似た、丸い機械の写真だった。

「なんだ、こりゃ」

 

健人がすっとんきょうな声を上げた。丸い液晶画面は半分に分けられ、デジタル数字がそれぞれに表示されている。左は三、右は九六。
「温度湿度計だよ。昨日、トンネルで撮ったんだ。いいかい、温度は三度で湿度は九十六%だったんだ。この真夏に。こんなことってありうると思うの」

「洞窟の中や地下の温度は、年間を通してあまり変わらなかったりするぜ」

「そう言われるだろうと思って調べたんだ。鍾乳洞なんかの温度は、その土地の年間平均気温程度で、一年を通してほぼ一定なんだ。三度っていったら、このあたりじゃ真冬の最低気温くらいだよ」

「ありえないよな。だから、あのトンネル、あんなに寒かったのか。おかしいと思ったぜ」

健人がうなった。諒太はわざと声をひそめ、こう言った。

「二人とも、聞いたことあるかい」

健人は身を乗り出してくるが、拓海は変わらずさめた目で、諒太のスマホをながめている。

「心霊現象が起きる時っていうのは、気温が周囲より大幅に下がるって言われてるんだ」

 

二 幽霊の正体

諒太と健人はめんどうくさがる拓海を説得し、互いの都合を合わせて三日後の午後にもう一度トンネルを訪れた。

一応入り口には金網が張られているが、全体がさび付き、しかもはしが破れて人ひとりがくぐれるほどのすきまができている。

健人、拓海、諒太の順で破れ目をくぐる。そのとたん、冷気が全身を包んだ。全身ににじんだ汗が一気に凍り付く。ぶよぶよした苔を踏み、奥に進む。奥からかすかに水のしたたる音。

壁に浮かぶシミも、床に散乱したネズミの死体も、三日前と同じだった。

諒太たちの話をバカにしたように聞いていた拓海も、薄気味悪そうに壁や天井を懐中電灯で照らしている。

不規則な形のしみ。垂れ下がったケーブル。床に散らばる錆びたボルトや釘。

「ここ、一体何だったんだろうな。道路の延長としてのトンネルじゃなさそうだぜ」

拓海があちこちを観察しながらつぶやいた。拓海の息が白く凍っている。

「防空壕とかかな。心霊スポットってそういうの多いし」

「いや、それはないと思うぞ。防空壕にしちゃ立派過ぎ。防空壕として使われた時期もあったかもしれないけど、あんなケーブルやボルトなんて、防空壕には必要ないだろ」

健人が天井を照らしながらそう言った時だ。

諒太は無言で、二人の目の前に左腕を差し出した。腕時計型の温度湿度計。

気温は二度、湿度は九八%を示していた。

三日前よりさらに低い気温。この三日で、夏の盛りに向かい、外気温は上昇を続けているというのに。歯がカチカチと鳴る。

諒太と健人は、どうだ、というように拓海を見た。拓海は、わざとのように無表情を保ち、トンネルの奥を懐中電灯で照らす。光の輪の向こうには、果ての見えない闇。

「幽霊を見たっていうのはどこだい。こんな古いトンネルだ。どこが崩れるか分からないぜ。さっさと案内してくれよ」

諒太と健人は顔を見合わせた。探検するのに興奮していて、古いトンネルには崩落の危険があることなど、思いつかなかった。

健人がライトを奥に向け、先に立って歩き出した。諒太も続いた。

急な下り坂。けちらされたままの砂利。砂利を踏む音。ボルト。釘、ドリルの刃。赤い錆びが浮かび上がる。赤い錆は血を連想させる。

少しずつ大きくなる水音。また何か起こるのだろうか。できればあんなものは二度と見たくない。だが、怖くて幻を見たのだと拓海に思われるのもしゃくだ。健人は、ライトを右に左にふりながら、あたりに油断なく目を配っている。

「ここだ」

床に近い壁に、血染めの手の跡が一組。床では、三日前に踏んだネズミの死体が、異臭を放っていた。

「影はどっちから来てどっちに消えたんだい」

不快そうに顔をしかめながら、拓海が健人にたずねた。一刻も早く白黒つけて帰りたい、そんな気持ちがありありと見える。健人は拓海の質問に、壁を手で示して答えた。

「どっちから来たかは分からない。急に足が痛くなってうずくまったら、目の前を横切ったんだ。そして、右手の壁に消えた。それはまちがいない」

拓海はうなずく。右手の壁を照らし始める。血染めの手のひらも意に介さないふうだ。下から上へ。照らし終わったら一歩奥へ進む。また壁全体を照らす。また奥へ進む。

突然、拓海の懐中電灯の光が消えた。拓海の姿が闇に沈む。

「おい、拓海、どうしたんだ」

健人があわてたようにライトを前方に向ける。拓海の姿はない。

拓海が消えた。

「ねえ、拓海くん、どこにいるの、返事をしてよ」

諒太も悲鳴のような声を上げた。拓海一人の体温が消えたせいか。寒さが一層激しくなる。

「バカ。ここだ」

ライトとともに、拓海が壁からぬっと現れたので、諒太はスマホを取り落としそうになる。

「ここ。横穴があるぜ」

拓海は懐中電灯を壁に向けた。光がすっと消える。

いや、消えたのではない。拓海の懐中電灯の明かりは、右手の壁に開いた、高さ百七十センチ、横{幅|はば}百五十センチほどの横穴の中を照らしている。

諒太は拓海の後ろから、かがんで横穴をのぞきこんだ。ライトで内部を照らす。一応コンクリートで固められてはいるが、ひび割れがひどい。今まで下ってきたトンネルの比ではない。床もガラクタだらけ。木切れ、ゴムベルトの切れはし、コンクリートのかけら。何に使われたか分からない、ぼろぼろの布切れ。あちこちへこんでぼこぼこになったアルミの食器。ひび割れた、プラスチックの洗面器。うす緑色の底の部分に、古くさいデザインの花模様。汚れきり、指の部分が折れ曲がった地下足袋。折れ曲がった指の部分に、何か細いひものようなものがはさまっている。よく見ると、青黒い地下足袋に、ほこりをかぶった青っぽいお守り袋がくっついていた。

足の踏み場もなく、秩序も何もないが、まぎれもなくだれかの生活の跡だ。そのだれかは、どんな人で、その後どうなったのだろう。主人をなくした持ち物が散乱している様は、嫌な想像ばかりをかき立てる。意識して無視しようとしても、緊張を訴えるように心臓がうるさく鳴り始めた。

過去の遺物から光をそらしてさらに奥を照らすと、壁に向かって三段ほどコンクリートの階段が作られ、その上には、高さ五十センチほどの、朱色の鳥居が作られていた。もちろん色はあせ、ところどころ塗装がはげかかっている。何のへんてつもないミニチュアの鳥居なのに、闇の中、ライトに浮かび上がる鳥居は、ひどく禍々しく見えた。まるで邪神を祀っているもののような。いや、それは考えすぎか。でも、どうしてこんなところに鳥居があるんだ? まさか、何かを封じこめる…ため……とか?

背筋にふるえがかけ上がったのは、寒さのせいだけじゃない。
隣の健人を見ると、健人も固い表情で、じっと鳥居を見つめている。

一方、拓海は冷静そのものだった。

「はっきりしたな。きみたちが見たっていう影は、この横穴に飛びこんだんだ。ライトの光が届いてない奥の方からでも来たんだろう。猫がネズミでも追いかけてたんじゃないか」

「えー。猫には見えなかったよ。ピンクに近い赤だったし、体の表面にも毛の感じとか、全然なかったし。健人くんも、猫って言われても納得できないでしょ」

「オレも、あれは猫じゃないと思うぜ」

健人も諒太に同調した。

諒太は、あの時のことをもう一度思い返した。直前に聞こえた奇妙な声。健人が訴えた足の痛み。あの影は、言葉では説明できないが、ひどく嫌な感じがした。動きは動物に似ていたが、壁に消える前に一瞬見えた足の裏は、人間のものとしか思えなかった。

「前を歩いていたぼくがここに入った時、きみたち、『拓海が消えた』って騒いだろ。急に横穴に入ったら、消えたように見えたんだ。三日前もそうさ。横穴に入っていったのは、猫じゃないにしろ、幽霊なんかじゃなく、ちゃんと実体のある『何か』だったってことさ」

 

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