目次
はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、先日久しぶりに筑紫野市歴史博物館を訪れましたら、こんなものが新しく展示されていました。
古代大宰府空間地図。よくよく見ると、最新の発掘結果などを反映して、古代大宰府の全貌を浮かび上がらせたもののようです。
そして、たまなぎの『遠の朝廷にオニが舞う』『神眠る地をオニはゆく』の舞台も一目で分かります!
舞台については今まで何度かご紹介させて頂きましたが、せっかくですので地図を見ながら解説させて頂こうと思います。
(注意:『遠の朝廷にオニが舞う』『神眠る地をオニはゆく』のうっすらネタバレを含みます。ご了承の上先へお進み下さい)
こちらが元々の画像(クリックすると拡大します)
そしてこちらが、たまなぎが舞台に関連するものを強調した画像です。(クリックして拡大してご覧下さい)
『遠の朝廷にオニが舞う』の舞台(①~④)
①水城跡(西門)
『遠の朝廷にオニが舞う』は、白村江の戦いから約10年後、国交を回復した新羅から、公使が訪れるところから始まります。
地図の①、水城の西門の近くの、左上に伸びている道をご覧下さい。「筑紫館(鴻臚館)へ」と書いてありますね。
新羅使たちは、筑紫館からこの道を通って西門までやって来たのです。
水城は、約1.2㎞にわたり、水深4m、幅60mもの濠を作り、その先には最大9mもの高さの堤を築いています。これで福岡平野方面から大宰府への平野部分は完全に塞がれるようになっています。
現在、濠の部分には水はなく、菜の花畑になっています。
堤には桜が植えられ、花見の季節には多くの人でにぎわいます。
水城についての詳しい記事はこちら↓
②大宰府政庁跡
地図の②は、「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府政庁跡。
朝廷の出先機関であり、外交・防衛・九州の統治という重大な3役を担いました。
この場所は、『遠の朝廷にオニが舞う』にも、『神眠る地をオニはゆく』にも、繰り返し登場します。
南門跡から正殿方向を望むとこんな感じ。後ろに見えるのが、大野城が築かれた四王子山です。
大宰府政庁跡について詳しい記事はこちらです。場面解説と写真も豊富です。
③武蔵寺
瑠璃子たちの師であり、医師の役割も兼ねる百済僧法蔵が身を寄せていた、武蔵寺。
(注;法蔵と武蔵寺の関係はフィクションです)
地図をご覧下さい。③の矢印の先に、「塔原塔跡」と「武蔵寺」という文字が見えるでしょう。
実は、瑠璃子たちの時代の武蔵寺は、「塔原塔跡」にあったと考えられています。それが大宰府が発展すると共に般若寺として条坊内に遷され、残った塔原寺は塔原廃寺となって、さらに後に武蔵寺に遷されます。
これが現在の武蔵寺です。
ちなみに、瑠璃子姫と藤原虎麿は、歴史上の人物として実在が確認されているわけではなく、武蔵寺の成り立ちを書いた『武蔵寺縁起』という文書に登場する人物です。
虎麿は、初代の筑紫大宰であった蘇我日向がモデルと言われています。
鈴丸はもちろんたまなぎの創作人物です(笑)。
武蔵寺についての記事はこちらです。
④次田の湯
こちらは、二日市温泉のことです。
『武蔵寺縁起』の中に、「疫病にかかった瑠璃子を救うため、虎麿が薬師如来に祈り続けたところ、夢の中に僧が現れて、温泉の場所を示した。そこを掘ると温泉が湧き、その湯が瑠璃子を始め数多くの人の病をいやした」いう話があります。
たまなぎの『遠の朝廷にオニが舞う』は、この『武蔵寺縁起』をヒントに書かれています。
『神眠る地をオニはゆく』の舞台
⑤大野城
大宰府の北側を守るように建てられた大野城。
こちらも水城と同じく、天智天皇が白村江の戦い後、大宰府を防衛するために作らせた防衛機構の一つです。
『神眠る地をオニはゆく』下巻冒頭で、瑠璃子たちが怪火を追って登ったのが、この大野城です。
古代の山城は、ぐるりと周りを土塁で囲み、中に蔵などの建物を沢山建てるという作りでした。
土塁は水城と同じく、土を突き固める版築工法で作られ、1300年以上も経った今もその姿を残しています。
(写真は大野城の土塁)
大野城についての記事はこちら↓
⑥基肄城
大宰府を守るために作られたもう一つの山城がこちら、基肄城です。
現在では福岡県と佐賀県の県境にあります。
『神眠る地をオニはゆく』で、あの大バトルが繰り広げられたのが、この基肄城のある基山山頂です。
山頂に鎮座しているタマタマ石。はるか古代、神を迎える磐座でした。
この石、実は作品中に登場しています。分かった方おられますか?
山頂は非常に眺めが良く、天気が良ければ博多湾や有明海も望むことができます……逆に言えば、海から攻めて来る敵を発見しやすいともいえます。
作品と重ね合わせて基肄城を紹介した記事はこちら↓
最新の発掘結果から浮かび上がる古代大宰府の姿
もう一度地図をご覧下さい。
赤く丸で囲った文字が見えると思います。一番右下のものが「前畑遺跡」他の二つには「大宰府外郭の境界」と記されています。
この前畑遺跡は、2003年になって新たに発見された遺跡です。
工法などから、大野城・水城・基肄城と同じ時代のものであることが分かっています。
この発見により、「大宰府は、都市を完全に城壁で囲んだ羅城だったのではないか?」との説が浮上しました。
「大宰府外郭の境界」とは、この発掘結果を反映したものと思われます。
ただ、大宰府が「完全」に土塁で囲まれた羅城だったかどうかは、未だ結論を見ていません。
2023年に九州歴史資料館がまとめた資料によると、今の段階ではまだ「肯定も否定も出来ず、今後の発掘結果による」とのことでした。
大宰府羅城説と基肄城・大野城の役割についての考察記事はこちら↓
また、この地図で、前畑遺跡よりやや上に、「阿志岐山城跡」と見えるのが分かるでしょうか?
これは、1999年に発見された山城です。
『日本書紀』にも記載がなく、1300年以上も未発見のまま眠っており、民間の研究者によって発見されました。
その後の調査で、久留米の高良神社境内にある神籠石と同じものが発見され、神籠石式の古代山城であることが分かりましたが、詳しい年代などはまだ調査中とのことです。
一度行ってみたいですね。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!