『神眠る地をオニはゆく』 歴史 作品解説&エピソード

古代の山城・大野城探索!②増長天礎石~鏡池~馬責め

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

今回は、白村江の戦い後、天智天皇が作らせた朝鮮式山城・大野城探索の2回目。

「鬼の腰かけ」まで行きましたら、今度は駐車場まで戻ります。そして車道を渡り、「増長天礎石群」へ。

 

増長天礎石群

車道を渡り、細い道を少し登ると、すぐに増長天礎石群が見えてきます。

これはすごい!

大宰府政庁跡の礎石群にもまさるとも劣らぬ規模の礎石が、4棟分、見事に並んでいます。

礎石の向こうには、土塁が見えます。

 

土塁の上に登って、礎石群を見下ろすとこんな感じです。

 

大変整然と並んだ礎石群。県民の森ホームページによれば、建物の大きさは梁行6.3m、桁行10.5mで統一されているそうです。

ちなみに、今更言うまでもないかもしれませんが、この時代の山城は、周りに堀を巡らせ、天守閣などの高い建物のある中世の城とはだいぶ違います。

土塁でぐるりと周りを囲み、中に数十棟の建物を配置した構造です。

この増長天礎石群の建物は、床までの高さが1.8m、屋根までの高さが約8mの高床式倉庫であったことが分かっています。

ちなみに、「増長天」とは仏教の四天王の一人、南方の守り手です。

奈良時代の770年、当時緊張関係にあった新羅からの侵攻に対し、四天王を勧請して四天王寺がこの山に作られたことから、南方に位置する礎石群に増長天の名がつけられたのでしょう。

 

鏡池

増長天礎石群のすぐそばに、鏡池があります。

上から見ると浅い水たまりのように見えますが、実は深さは7メートルほどあると言われているそうです。

 

籠城となった時、水は必須。鏡池は水を得るための場所と考えられています。

どんな日照りでも決して水が涸れることがなく、雨乞いのために鏡を投げ入れたという伝説も残っているそうです。

 

おや、横には小さな仏さまが。

なぜかハングルの書かれたお札がお供えしてありました。

太宰府に来る外国人観光客のほとんどは太宰府天満宮だけで満足して終わってしまわれるので、ここまでわざわざ訪ねてきた方がおられるのは嬉しいですね。

 

馬責め

さらに奥へ進むと、開けた場所に出ます。ここは「馬責め」と呼ばれています。

 

実は四王寺山には、大野城だけではなく、別の時代にも城が築かれていました。それが戦国時代の岩屋城。大友宗麟の家臣・高橋紹運が島津軍4万の大軍をわずか700名で迎えうった場所です。

「馬責め」は、この時馬場があったと伝えられています。

 

大石垣を目指すが……?

さて、ついでにこの近くにあるという、大石垣を目指します。

大石垣はこっち、と標識も出ています。

 

ところが……?

だんだん道がなくなってきます。木々に赤いテープが結び付けられていて、かろうじて進行方向が確認できるほど。足元もかなり悪いです。

そして行き着いたのがここ。石だらけの急斜面!

よーく見ると、右奥につかまるためのロープが張ってあるのが見えるでしょうか?

 

ここか⁉

たまなぎは勇んで降りようとし……「危ない!」と首根っこつかまれて止められました(汗)。

確かに降りるのはかなり危なそう。泣く泣く諦めました(泣)

帰ってネットで確認したら、大石垣は綺麗に復元されており、ここではありませんでした(泣)。

しかし、これだけの石は明らかに人工物。石垣の一部だったことは間違いないでしょう。

いつかリベンジしたいです。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

 

 

 

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