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福岡の勅祭社・香椎宮⑤応神天皇の父親の謎

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

今回は前回の続きです。

住吉大神と神功皇后が男女の関係であった、というショッキングな文書、『住吉大社神代記』。

では、応神天皇の父親は、一体誰なのでしょう。

 

1.仲哀天皇崩御の夜、何があったか

『日本書紀』では、神託を無視して熊襲討伐に出かけた仲哀天皇は、討伐を果たせず、受けた矢傷がもとで香椎の地で亡くなったとされています。しかし、『古事記』ではもっと詳しい描写があります。

そのままでは分かりにくいので、分かりやすく意訳しますと、次のようになります。

仲哀天皇が筑紫の香椎宮におられて、熊襲を討とうとされた時のこと。

皇后は神がかりされ、健内宿禰(タケシウチノスクネ)の大臣は神おろしの場所・沙庭にいて、天皇は琴を弾いて神託を乞いました。すると、神は「西の方に財宝の沢山ある国があり、これを服属させてやろう」と仰せになりました。

ところが天皇は「高いところに登っても西の方に国は見えず、ただ海があるだけだ」とお答えになり、嘘をおっしゃる神だと思われて、琴を横に押しやって弾くのをやめ、黙っておられました。

すると神が怒って、「この天下はそなたが統治すべき国ではない。そなたは黄泉の国へ一直線に向かいなさい」と仰せになりました。

健内宿禰は天皇に恐れ多いことだから琴を弾くように促され、天皇はしぶしぶお弾きになっていましたが、すぐに琴の音が途絶え、灯りを灯してみると天皇は亡くなっておられました。(講談社学術文庫『古事記』より、筆者意訳)

 

 

その後、皇后と大臣は、天皇の死を伏せ、天皇の遺体をこっそり豊浦(山口県)に移して殯を行います。

天皇の棺を木に立て掛け、あたかも天皇がいるかのように装って御前会議を行ったのがこの場所。香椎宮の古宮です。

 

仲哀天皇の死の現場に立ち会ったのは、武内宿禰(古事記では健内宿禰、日本書紀では武内宿禰)と神功皇后のみ。それと、その場にいた神(この時点では神の名は不明)。

しかも、「灯りをつけてみると……」という記述からも、夜の出来事と推測されます。

相手が誰にせよ、皇后が天皇以外のものと関係を持ったとしても、簡単に隠せたことでしょう。

また、「そなたは黄泉の国に向かえ」という一言は、神が天皇を殺害したともとれる不穏な一言です。

 

2.武内宿禰(タケノウチノスクネ)という人物

武内宿禰という人物は、『古事記』によれば、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の四朝に仕え、約300歳の長寿を保ったとされています。

また、蘇我氏など、主要な7氏の祖先とされています。天皇家にとって理想の「忠臣」像として、後から創作された人物と解釈されることもあります。

これは香椎宮に飾られていた絵馬。右が仲哀天皇・神功皇后夫妻、左に跪く白髪の人物が武内宿禰。聖水を仲哀天皇に奉る様子と書かれています。

 

この「聖水」ですが、香椎宮の奥の住宅街に、長寿を保った武内宿禰にちなみ、「不老水」の湧き出す場所があります。不老長寿の御利益があると言われています。

  

 

仲哀天皇の死に立ち会ったのが、神功皇后と武内宿禰だけだったこともあり、この武内宿禰が応神天皇の父親ではないか、という憶測を呼ぶことにもなりました。

また、住吉大神=武内宿禰と考える研究者もいます。

古代史に詳しい作家の高田崇史氏は、その著作の中で、『住吉大社神代記』の記述と合わせて、住吉大神=武内宿禰としたうえで、「応神天皇の父は武内宿禰である」と、信ぴょう性のある話として登場人物に発言させています。

 

3.さらにショッキングな神社伝承

これだけですと、「武内宿禰=応神天皇の父」説は少し牽強付会にすぎる気がしないでもないのですが、さらにショッキングで有力な証拠となる神社伝承を見つけました。

福岡県久留米市にある高良大社は、筑後の国の一之宮で、創建は仁徳天皇時代とも履中天皇時代とも言われ、大変歴史が古く、神社建築としては九州最大の神社。

この神社の縁起書のひとつ、『高良記』に、このような記述があるというのです。

「高良記之事」において、本社祭神高良大明神の出自を天神七代から説き起こし、三韓征伐にあたって高良大明神が神功皇后を輔けるべく筑前四王子嶺に出現し、父住吉大明神とともに出征し干珠・満珠の宝珠で戦果を挙げ、凱旋後は皇后と夫婦の契りを結んで五人の王子をもうけ、宮中に住んだが、皇后崩御の後、仁徳五五年、三種の神器を預かって高良山に遷幸した次第。その後、天武二年、発心して高良大菩薩となったこと……(赤字筆者)

(引用;九州古代史の会『「倭国」とは何かⅡ』不知火書房,2012年)

 

つまり、神功皇后は仲哀天皇の死後、住吉大神の息子と結婚して5人の王子を設けた、ということ。

この高良大明神(高良玉垂命)は、ここ独自の神様で、正体については諸説あります。

しかし、八幡信仰が盛んになった中世以降、八幡神の第一の伴神とされたことから、八幡神=応神天皇の中心であった江戸時代以降は武内宿禰に比定されるようになりました。

こんがらがってきましたので、論点を整理します。

①『住吉大社神代記』によれば住吉大神と神功皇后は男女の関係を持ち、生まれたのが応神天皇。

②『高良記』によれば、高良大明神は神功皇后の凱旋後神功皇后と結婚して5人の男児を設けた。

③『高良記』によれば、住吉大神と高良大明神は父と息子の関係。

④高良大明神は武内宿禰に比定される。

 

こうするとやはり、武内宿禰と神功皇后は男女の関係にあったことは間違いないようです。

住吉大神と高良大明神のいずれが武内宿禰なのか、というのも、両方と考えればすっきりします。

なぜなら、武内宿禰というのは、300歳の長寿というありえない設定で、歌舞伎役者が同じ名を何代も継いでいくように、複数の人物が同じ名を名乗っていたと考える研究者も少なくないからです。(となると神功皇后は〇代目武内宿禰との間に応神天皇をもうけ、〇+1代目武内宿禰との間に5人の王子をもうけたことになります)

いずれにせよ、仲哀天皇で一度天皇家の男系は途絶え、新たな王朝に交代したというのは、かなり可能性の高いことのようです。

 

4.仲哀天皇崩御の夜に何があったか?再び。(たまなぎの迷推理)

ここからは単なる私の想像です。

以前こちらの記事で書いたとおり、古代の九州には、広い意味での「海神(わだつみ)」を奉じる、海洋系民族が住んでいました。

住吉三神は、伊弉諾が禊をした時に、海から生まれた神。広い意味での海神です。

ですから、この時仲哀天皇夫婦は、航海術を持ち、九州の事情に詳しい地元の有力者たち(神々)に、今後の作戦を相談し、協力を要請したのではないでしょうか。それを仲立ちしたのが武内宿禰。

けれど天皇が彼らの意見を聞き入れず、交渉は決裂。母が新羅系でもともと海洋系民族に親和性のあった神功皇后は彼らと結んだ……そんなふうに考えることもできます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

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