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福岡の勅祭社・香椎宮③霊廟から神社へ変貌した香椎宮の謎

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

今回からは前回の記事で予告したとおり、香椎宮に祀られている、神功皇后について考察していきたいと思います。

 

1.神功皇后についてのおさらい(一部再掲)

神功皇后については、ご存じの方も多いと思いますが、ざっとご説明します。

神功皇后は、第12代仲哀(ちゅうあい)天皇の妃。皇后ですが、自ら戦いに赴いたり、政治の実権を握っていたりと、事実上女帝といってもよいでしょう。

『日本書紀』では、ほぼ即位した天皇ごとに巻が分けられているのですが、巻第9は神功皇后の名を冠し、その業績が綴られています。事実上天皇扱いですね。

神功皇后は、仲哀天皇と共に熊襲(九州南部の異民族)征伐のため九州に赴きます。

天皇・皇后は香椎宮(現在の香椎神宮)を仮住まいとしますが、そこで皇后に神託が下ります。

「熊襲はやせた土地であり、討伐するに足りない。それよりも海を越えて金銀財宝の豊かな土地・新羅を征伐しなさい」と。

ところが天皇はその言葉を信じず、予定どおり熊襲を撃とうとします。ところが勝てずに帰り、香椎宮で急死してしまいます。『日本書紀』には、「神の言葉を採用しなかったので早く亡くなられたと思われる」と書かれ、仲哀天皇よりも神功皇后の正当性を強調する内容になっています。

天皇が亡くなった後、神功皇后は九州のまつろわぬ民(注;朝廷にまだ従っていない人々)を次々と平らげ、やがて有名な朝鮮半島への出兵=三韓征伐へと向かい、九州へ戻って応神天皇を産みます。この時、海上での出産を避けるため、腰に石をくくりつけてお産を遅らせたというのは有名なお話です。

 

2.香椎宮の始まりは「香椎廟」だった 

香椎宮は大変歴史の古い神社です。けれど、「神社」としての歴史は、7世紀前後まで歴史をさかのぼれる古社に比べると、実はそこまで古くはないのです。

「香椎宮」は、もともと「香椎廟」=霊廟=お墓でした。

神の神託を信じず、香椎の地で亡くなってしまった仲哀天皇を弔うために、神功皇后が建てたものです。現在の香椎宮社伝では、仲哀天皇9年時点ですでに神功皇后の手で仲哀天皇廟が建てられたとした上で、さらに養老7年(723年)の皇后の託宣により神亀元年に皇后廟も建てたので、これら二廟をもって創建とし「香椎廟」と総称された、としています。つまり、この時は神社ではなく、霊廟。神社となったのは、さらに後、10世紀半ばごろと言われています。

神宮皇后が仲哀天皇を祀ったのが古宮。香椎宮の本殿を出て少し坂を下った、住宅街の入り口付近にあります。ひっそりとしており、誰もいません。

 

中に入ると、古宮のご神木が。

 

そこからさらに右手に、ゆるやかで細い道が伸びています。こんなところに入って大丈夫なのかな? と思いましたが、

こういうところを見ると入りたくなるのはたまなぎの習性。

 

こちらが古宮の本体(?)でした。

 

説明版を見ると、「仲哀天皇の御遺業を完遂せんとし給ひ、神功皇后は天皇の裳を秘し、天皇の御棺をこの椎木に立て掛けられ、恰(あたか)も天皇親臨の御前会議を開かれた。この時御棺より薫香漂ひたるにより、香椎の名起こるとの地名伝説もあり」とありました。

なるほど、「香椎」は仲哀天皇の棺を椎の木に立て掛けた時、棺からよい香りが漂ってきたことから名づけられたのですね。

 

3.神社になったのはいつ?

文献上で「香椎廟」が初めて見えるのは、神亀5年(728年)11月がはじめ。社伝の724年とも大きくずれはないため、史実の上でもその間の創建とされています。その後、初めて「大宮司」を置いたと記録されるのが天元2年(929年)『太政官符』。神社になったのはこの頃のようです。

香椎宮は度々焼失しているため、現在のような姿になったのはいつごろか断定はできません。しかし、しょうぶ池、樹齢数百年はあるであろうご神木などは、そうそう位置を動かせるものではありませんから、「本殿に参拝するのに池を渡り、ご神木の横で参道が直角に折れ曲がる」という構造は、当初から保たれていたのではないかと思われます。

 

4.大正時代にようやく再会した夫婦・仲哀天皇と神功皇后

現在、香椎宮のご祭神は、「神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、住吉大神」とされています。

香椎宮のHPを見ても、神功皇后と仲哀天皇の夫婦愛を紹介し、「夫婦の宮」を前面に押し出しています。ところが、仲哀天皇の霊については、実はずっと古宮にとどめ置かれており、香椎宮に合祀されたのはなんと大正4年(1915年)になってから。

つまり、香椎廟が「香椎宮」になった10世紀半ばから、大正4年までの千年近くもの間、神功皇后は仲哀天皇とは隔離され、しかも怨霊神を祀る形式の神社に閉じこめられていたということになります。これは一体なぜでしょうか?

現時点では、たまなぎにもはっきりこれ、という答えは出せません。しかし、「これかも……?」と思い当たる史実や伝説はあります。次回の記事では、それについてご紹介したいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

 

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