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珠下なぎの歴史メモ⑨諏訪神社の謎の神々その2 建御名方神の誕生

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

諏訪神社の主神である建御名方神(たけみなかたのかみ)ですが、この神様は出雲の王・大国主命の息子、ということになっています。

 

しかも前回の記事で述べたように、実は大国主命の系譜には記されておらず、国譲り神話の段になって突如として現れた神様なのです。

 

『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)には、建御名方神の母は越=現在の北陸地方の女王・奴奈川姫ということになっています。

 

ちなみに『先代旧事本紀』は、天地開闢から推古朝までの歴史が記された、著者不明の歴史書です。

序文などに矛盾があることから、長く偽書の疑いをかけられていましたが、その資料的な価値には一定の信頼がおかれています。

 

当時の北陸地方は翡翠の産地でした。

翡翠は勾玉の材料であり、支配階級にとってはなくてはならないもの。

翡翠を求めて出雲から海路で北陸地方に達した大国主命は翡翠の里の女王・奴奈川姫を見初め、妻にするのです。

 

そこで生まれたのが健御名方神。

 

健御名方神が成長した後、素戔嗚命が亡くなったので出雲に帰るようにとの知らせが大国主命のもとに届きます。

大国主命は奴奈川姫を出雲へ連れていこうとしますが、奴奈川姫は激しく抵抗します。

大国主命は大変な艶福家(笑)で、北陸を訪れた時も26人もの妃を随行し、さらにあまたの妃を出雲に残していました。

それに加え、奴奈川姫は翡翠の里の女王。

翡翠を使った勾玉は呪力を持ちます。呪力は古代においては現代の科学にも匹敵する強大な力を持っていました。

つまり奴奈川姫は故郷に対し、大変責任ある立場にあったのです。これを放り出していくわけにはいかない。

 

姫は夫の追っ手を逃れ、最後には現地の鬼である夜星武(よぼしたける)の助けを借りて死んだと見せかけ、故郷にとどまったのです。

 

健御名方神は父について出雲へ戻り、そして後に高天原の侵攻を受けで建御雷神(たけみかづちのかみ)と勝負して敗れ、諏訪地方に逃れたことになっています。

 

しかし、諏訪神社の研究者の一人である神戸女子大学助教授(当時)の鈴鹿千代乃氏は、2004年に出版された『お諏訪さま』の中で次のように述べられています。

 

「大国主神は、大穴牟遅(おおなむぢ)神、葦原色許男(あしはらしこお)神、八千矛(やちほこ)神、宇都志国玉(うつしくにたま)神と五つの名を持つ。

そしてそれぞれの神話によってその呼び名が違うのである。

『八千矛神』という名は、越の沼名河比売(=奴奈川姫)とへの妻訪い(つまどい)神話にのみ使われている。

(中略)

大国主神は、最初から五つの名を持っていたわけではなく、小さな国々が次第に大きな国に統一されていく過程で多くの王たちの名が大国主神という一神に集約されていったと考えられる。八千矛神はおそらく越という、今の福井・石川・富山・新潟県にまたがる王国の王であったのだろう」

 

さらに、北陸地方の王・八千矛神は、翡翠の呪力を手に入れて巨大な王国となり、日本海を通じて出雲と交流して出雲に統合されていく。八千矛神を通じて出雲の文化圏は諏訪地方にも及んでいった、ということではないか、という説です。

 

つまり、北陸~諏訪には出雲に対して緩やかな隷属関係だった巨大な文化圏が存在し、そこの支配者が八千矛神であり、息子の健御名方神であった。

大和王権=高天原は、出雲を隷属させ、出雲を通じて北陸~諏訪の文化圏を掌握した。

その事実を正当化するために、「出雲の大国主神の息子である健御名方神が、諏訪に逃げ、『諏訪から一歩も出ない』ことを約束させて命を助けた」という神話を作り上げたのではないか、というお話でした。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

 

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