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古代研究フォーラム「筑紫君磐井の乱の実像に迫る」行ってきた!①

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございました!

 

さて、去る令和6年11月30日、九州歴史資料館主催の古代史研究フォーラム「筑紫君磐井の乱の謎に迫る」行って参りました!

この手のフォーラムはなかなかハードルが高く参加できなかったのですが、今回は筑紫君磐井!

たまなぎの電子書籍デビュー作『遠の朝廷にオニが舞う』及び続編『神眠る地をオニはゆく』両方に、磐井の乱は重要な時代背景として登場します。これは行かねば!

九州の古代史研究の第一人者の皆さまから、最新の知見が聞ける、こんな機会はなかなかありません。というわけで勇んで出かけました、休日の福岡市天神に!

(本音を言いますと、作品に間違ったことを書いていないか心配だったというのが大きな理由だったりしましたが)

 

以下は、筑紫君磐井と磐井の乱について一般的な知識をお持ちの方向けに書いています。筑紫君磐井について一般的な知識を知りたい方は、まずこちらの記事からご覧下さい。

 

講師陣/プログラムの紹介

プログラムは以下のような感じでした。

☆第一部

①基調講『筑紫君磐井の墓(岩戸山古墳)の石製装飾と装飾古墳の展開』

柳澤一男先生(宮崎大学名誉教授・九州における古代史研究の第一人者)

②報告1『筑紫の君の古墳と開発』

小嶋篤氏(九州歴史資料館埋蔵文化財調査室技術主査・学芸員)

③報告2『筑紫国造とヤマト王権』

酒井芳司氏(九州歴史資料館学芸調査室参事補佐・学芸員)

 

☆第二部

トークセッション

コーディネーター 中村俊介氏(朝日新聞社) 松川博一氏(九州歴史資料館学芸調査室長)

パネリスト 第一部の講師陣+小澤太郎氏(久留米市市民文化部文化財保護課主査)

 

本日の記事では、前半の基調講演から、たまなぎの印象に残った話題を中心にご紹介していきます。

(注意。内容の全てではありません。また、関連した場所の写真なども混じっています。写真は全てたまなぎが撮影した手持ちのものを使っています)

次回の記事では九州歴史資料館のお二方の「報告」のご紹介、次々回の記事でトークセッションの内容をご紹介する予定です。

 

磐井の墓の石製装飾と装飾古墳の展開

筑紫の君磐井の本拠地と考えられている福岡県八女市の丘陵には、大小合わせて300基もの古墳が散在しています。

その中でも岩戸山古墳は最大の前方後円墳で、6世紀に隆盛を誇った筑紫の君磐井の墓と伝えられています。

この磐井は527~528年に時の継体天皇と対立し(磐井の乱)、滅ぼされたことが記紀に記されています。

 

講演の内容の全てはご紹介できませんが、内容の中から、特にたまなぎの印象に残ったお話をご紹介したいと思います。

 

有明首長連合の主導権の推移

八女地域最古の前方後円墳・石人山古墳は、岩戸山古墳よりも百年ほど古い、大型の前方後円墳です。時代から、磐井の祖父の代の筑紫の君のものだと言われています。筑紫の君の文化圏に特徴的な石人と、石室の家形石棺が特徴です。(右はレプリカ)

  

ところが、その後筑紫の君磐井の墓・岩戸山古墳の時代まで約百年間、前方後円墳は八女地域には存在しないのです。

その間は久留米地域藤山甲塚古墳・石櫃山古墳などの大型前方後円墳が作られており、この地域の豪族に主導権があったと考えられているのだそうです。

なるほど。古代北部九州には、筑紫の君・水沼の君・肥の君・豊の君などのそれぞれの地域に首長がいて、政治的・文化的につながりを持っていました。これは現在「有明首長連合」と呼ばれています。

この「有明首長連合」という概念は、本講演の講師の柳澤先生が提唱されたものだそうです。たまなぎはちょっと興奮しました。

脱線失礼。ということで本題に戻りまして。

つまりはこういうことですね。「連合の中の主導権は磐井の時代の前の百年間には久留米の首長グループ(水沼の君)にあり、磐井の時代には筑紫の君に移った」とたまなぎは解釈しました。

 

古墳からここまで読み取れるというのはすごいですね。

 

石製表飾の広がりと特徴

有明首長連合はゆるく文化を共有していましたが、その特徴の一つに、「石製表飾」と言われるものがあります。古墳の墳丘やその周辺に立てられた石製の装飾品で、楯や甲冑・人物や動物など様々なものがあります。

岩戸山古墳の石人石馬は有名ですね。(写真は岩戸山古墳、別区に再現されたもの)

 

この石製表飾は福岡・熊本からの出土が圧倒的に多く、宮崎や大分にもわずかに見られます。九州外では鳥取県米子市に一例だけ見られるそうですが、これは謎。

石製表飾は5世紀前後から始まり、5世紀前半に展開しますが、古墳一基につき1点の例が多いそうです。岩戸山古墳からは百点以上出土していますが、これは例外。それだけ磐井の勢力が強かったということなのでしょう。

これらは岩戸山古墳で出土した石製表飾の一部です。岩戸山歴史文化交流館に展示されています。

 

装飾古墳と磐井の時代~朝鮮半島との交流

さて、筑紫の君磐井が隆盛を誇っていた頃、北部九州には石室に色鮮やかな図案を描いた装飾古墳が多数つくられています。講演中では有名な王塚古墳や日岡古墳が紹介されていましたが、チブサン古墳や五郎山古墳などもありますね。

写真はチブサン古墳です。チブサン古墳には石人さんもいて、筑紫の君との強いつながりが示唆されています。

 

 

これらの装飾古墳、特に王塚古墳や日岡古墳の図案には、朝鮮半島のそれと共通点が多くみられ、朝鮮半島の絵師たちが来日して古墳の作成にあたったことが分かるとのことです。

また、この時代には、逆に朝鮮半島南部にも前方後円墳が多数出現しており、北部九州と朝鮮半島の間で活発な文化交流がなされたことも分かります。

ところが、朝鮮半島の前方後円墳の築造は、磐井の死後に停止します。

これは、北部九州ー朝鮮半島の直接の外交が停止したこと、つまり、外交がヤマト王権に一本化されたためと考えられるということです。それは磐井の乱の原因にも、大きく関わってきますので、また次の記事でもご紹介したいと思います。

 

磐井と継体天皇はもともと仲良しだった?

最後に、もう一つだけ印象に残ったお話を。

磐井の墓である岩戸山古墳では、石製表飾として、捩環頭太刀の一部や広帯二山式冠を模したものが見つかっているそうです。

捩環頭太刀の一部はこちら↓九州歴史資料館で開催中の「筑紫君一族史」で見ることができます。

これらはいずれも、継体天皇に特徴的なレガリア(威信財)装飾だそうです。

磐井は中央勢力との結びつきをアピールして自分の威信を高めたかった、というのはあると思いますが、あからさまに敵対した人物のレガリアをまねることはしないでしょう。

岩戸山古墳は、他の多くの古墳がそうであるように、磐井の生前から死後にそなえて作られたものだと考えられています。他の講師の先生方も言われていましたが、岩戸山古墳の築造時は、継体天皇との関係も悪くなかったのでしょう。

 

まとめ

・2024年11月30日の令和6年度古代フォーラム「筑紫君磐井の乱の実像に迫る」より、宮崎大学名誉教授柳澤一男先生の講演内容をご紹介しました。

・磐井の時代の前100年間ほどは、有明首長連合の主導権は八女地域ではなく久留米地域にあった。

・石製表飾は古墳一基につき一点が多く、岩戸山古墳のように百点以上というのは例外的である。

・磐井の時代のには、朝鮮半島と北部九州の交流が活発だったが、磐井の死後に途絶えた。

・磐井と継体天皇はもともとは親密な関係であった。

 

 

 

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