史跡巡り 歴史

隼人塚にまつわる怖い話

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

本日は隼人の乱についてのちょっと怖いお話をご紹介したいと思います。

 

先日、鹿児島県霧島市にある二つの隼人塚についてご紹介しました。

いずれも、隼人の大乱(720年)で殺された隼人たちの霊を慰めるために建てられたものと伝えられています。しかし、「霊を慰める必要があった」ということは、「霊が慰められなければならないと思わせるようなことがあった」ということ。

隼人塚についてまだお読みでない方は、まずこちらをご参照下さい。

 

放生会と隼人の乱

放生会の起源

皆さんは、「放生会(ほうじょうえ)」というお祭りをご存じでしょうか。

Wikipediaによると、「捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式」で、インドに起源を持つと言います。

ですから、純粋な仏教行事のように思われがちですが、実は日本で放生会が始まったきっかけは、隼人の乱と関わりがあるのです。

宇佐神宮に伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』には、

「8世紀のはじめころに起きた隼人の反乱を制圧するため、八幡神を神輿(みこし)に乗せ、宇佐の人々も参加した」

「隼人との戦いで殺生の罪を悔(く)いた八幡神が、仏教に救いを求め、放生会を始めた」

ことが書かれています。

この放生会をきっかけに、宇佐神宮では、全国の神社に先駆けて神仏習合が進みました。

宇佐神宮の神・八幡神は、後に石清水八幡宮に勧請され、武家の守り神として全国に広がっていきます。この過程で全国の神社が行われるようになり、今では一般的なお祭りとなっているのです。

 

隼人はだまし討ちにされた~化粧井戸と傀儡舞

では、王権側に立った八幡神(=応神天皇=宇佐神宮の祭神)は隼人を殺したことを悔いたのでしょうか。

出典は見つけられなかったのですが、古代のマイノリティをテーマにミステリー小説を多く発表している高田崇史氏は、その小説『QED 憂曇華の時』の中で、「(殺された隼人が)悪鬼となって人々に祟り、天然痘などに罹って命を落とす人が多数出てしまった」と述べています。

当時の人々はそれを隼人の祟りと考えた……これはどういうことでしょう。

身も蓋もない言い方をすれば、「祟り」というものは、科学的には存在しません。

たまなぎは、「祟り」とは、「不幸な出来事が起こった」「その前に、恨みを残して死んだ人がいた」ことを、当時もしくは後世の人が結び付けることによって生じるのだと思っています。

つまり、隼人の祟りが起こったと考えた=当時の人々は、隼人たちの恨みが相当なものだと考えた、ということです。

 

宇佐神宮には、『化粧井戸』と呼ばれている場所があります。その由来として、次のようなものがあるそうです。

「古表(こひょう)神社及び古要神社のご神体であるくぐつ人形の化粧をするための井戸である」

さらに、「ちなみに此のくぐつは隼人征伐に参加し隼人等は此のくぐつにみとれている間に伐たれたと伝えられている」

くぐつというのは傀儡、つまり人形を使った舞のことです。

戦闘の最中にいきなり舞を始めて隼人たちを欺く、ということは考えにくいですから、高田崇史氏はは「隼人たちと休戦協定を結び、その場で傀儡舞を見せて、油断させて武装を解かせたところを襲ったのではないか」と推定されています。

これは、あながちひねくれた見方ともいえないでしょう。

日本の歴史において、権力者側がまつろわぬものをだまし討ちにする、という戦略を取った例は枚挙にいとまがありません。

日本武尊は熊襲征伐において、女装して宴席に潜り込み、熊襲の首長を討っていますし、その帰りには出雲健と友好を結ぶふりをして水浴中に刀をすり替え、だまし討ちにしています。

大江山の酒呑童子は、山伏に化け、害意はないと安心させてきた源頼光らに騙され、毒酒を飲まされて討たれています。

このように、「友好の意を見せておいて裏切り、相手を全滅させる」という手法は、権力者側の常とう手段でありますし、それを堂々と書き残していたということは、これらの手段を卑怯なもの・恥ずべきものという発想自体がなかったように思われます。

しかし、その一方で、その後起こった天然痘の流行を隼人の祟りと考えたということは、朝廷側が何らかの負い目を感じていたことは間違いありません。それは、心のどこかでひどいことをしたという罪悪感があったのか、それとも手段はともかく、一つの民族を滅ぼしたことに対して相当の怒りを覚悟したのか、それは今となっては分かりませんが……。

 

止上神社の神事の謎

止上神社の神事~串刺しにされたのは隼人の首だった?

前回の記事でも述べた、止上神社の神事。

旧暦正月14日の初猟の時に取れた猪の肉を33本、串刺しにして隼人塚の前に立てて神事を行っていたことが記録されています。

ところが、前回の記事でも述べたように、この「串刺しの肉を塚の前に立てる」というのは慰霊の儀式にしては少し血腥い気がします。

と思いましたら、同じく高田崇史氏の『QED~憂曇華の時』には、主人公のセリフとしてこのようなものがありました。

「しかしこれは、その昔、実際に隼人を殺害して、串刺しにした三十以上の首を地面に立てたことに由来しているという」

とすると、これは慰霊の儀式どころか、「逆らうとこうなるぞ」という見せしめの儀式ではないでしょうか。

ひいいいいいっ(ガクガクブルブル)。

他にも、現地を訪れた人のブログレベルでは、同じような記述を複数見ました。

これらの記述の出典は見つけられませんでしたが、根拠となる伝承などが存在しているのかもしれません。

 

串良と肝付

止上神社の神事がもともと隼人の首を串刺しにした、という直接の出典は見つけられませんでしたが、傍証となる記事が『御託宣集』には残されています。

凶賊(ハヤト)の頭を取り、串に刺し給ふところを今串良と呼ぶ。

串良はもともと串良町であり、現在は合併によって鹿児島県鹿屋市の一部となっています。

大隅半島に位置し、霧島市からはかなり離れていますが、隼人たちの本拠地に含まれる場所です。

また、同じく大隅半島の「肝付」という地名は、

隼人等肝尽きて死するところを、今肝付(村)と言ふ。

と書かれています。

 

いずれも隼人の乱が、単なる戦いという以上に凄惨で残虐な形で幕を下ろしたことを示唆する記録です。

 

まとめ

・隼人の乱に際して、朝廷側は傀儡舞によって隼人を油断させてだまし討ちにしたと推定される

・止上神社が隼人の慰霊と称して猪の肉を塚前に立てる儀式は、もともと隼人の首を刺して地面に立てた見せしめの儀式だった可能性が高い

 

最後までお読み下さって、ありがとうございました!

 

 

 

© 2024 たまなぎブログ by LTA出版事業部