『神眠る地をオニはゆく』 史跡巡り 歴史 作品解説&エピソード

古代の山城・大野城探索!①山頂付近

はじめに

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

前回の記事では、古代の戦い「白村江の戦い」を取り上げたNHKの番組をご紹介しました。

この番組にもちらりと出ていましたが、白村江の戦いに敗れた後、天智天皇は北部九州に巨大な防衛線を作らせます。

その一つ、大宰府政庁のすぐ北にある四王寺山に築かれたのが大野城。ここにもたくさんの遺構が残されています。今回初めて訪れてみました。

大野城はとても広いので、徒歩で全てを見学しようとすると一日がかりになり、かなりの体力も必要です。

しかし、林道が通っているので、要所要所に車を停めて散策することができる、体力ミジンコ人間にはありがたい史跡です。

全てを回ることはできませんでしたが、半日でかなりの部分を見学することが出来ました。

 

大宰府口城門跡

太宰府天満宮方面から林道を登り、焼米ヶ原と名付けられた場所にある駐車場に車を停めます。ここから徒歩十五分ほどの範囲内に、かなりの遺跡が集まっています。

最初に訪れたのは、大宰府口城門跡。

ここは、駐車場から少し斜面を下った場所にあります。

見えてきました。これは城の内側から見たところ。

土塁の切れ目に城門があったようです。

 

こっちが外側から見たところですが……。

最初の感想。「と・に・か・く・デ・カ・イ!」

周りの木と比較して見て下さい。高さ、3メートルほどはあるでしょうか。

 

左手に見える石垣ですが、傾斜にそってさらに下まで続いています。

 

少し古いですが、復元図がありました。

最初の写真にあった土塁の切れ目に城門が作られており、その高さは土塁のさらに倍ほど……どれだけ巨大な城門だったのでしょうか。

 

これはすごい!序盤からテンション爆上がりです!

 

山頂・焼米ヶ原(尾花礎石群・玄清法印の墓)

さて、城門の見学を終えたら、駐車場に戻り、今度は山頂方面へ。

城をぐるりと取り囲んだ土塁がそのまま残っています。この土塁は、「版築工法」という工法で作られていることが分かっています。

これは、粘土や砂といった質の違う土を、厚さ数センチ単位で突き固める工法をいいます。水城も、2020年に発見された前畑遺跡の土塁も同じ工法で作られています。

1300年もの間、大雨や台風、地震もあったのでしょうに、これだけの跡が残っているのは大したもの。

土塁の上を歩くこともできます。たまなぎのテンションはますます上がります。

 

土塁の上に立つと、太宰府市内を一望できます。左下の大きな屋根は九州国立博物館。

 

土塁の内側にある尾花礎石群は、焼米ヶ原とも呼ばれています。今でも炭化した米が発掘されるのだとか。このあたりの建物は米倉だったようですね。

 

このすぐ近くに、玄清法印の墓があります。古代史とはあまり関係がありませんが、比叡山で大蛇を退治した功績があり、筑前盲僧の祖となった人物だそうです。福岡市内にある天台宗成就院の開祖だそう。

 

鬼の腰かけ

さて、この先は土塁が続き、主な史跡はないのですが、たまなぎにはどうしても行っておきたい場所がありました!

それが鬼の腰掛!

鬼好きとしては行かざるを得ないでしょう!

焼米ヶ原から尾根を5分程歩いたところにあります。

ありました! 意外に小さい。やや小柄な大人がかけてちょうどよいくらいです。

 

ここには、次のような伝説があります。

「1月7日の太宰府天満宮の鬼すべの夜、鬼がこの岩に腰かけて下を見ると、鬼すべ堂でひどい目に遭っている仲間の姿が見えて、涙を流した」

むむむ!

太宰府の鬼すべ神事のことは、以前ひととおり調べました。

1月7日、追儺に次いで行われる行事で、堂に入った鬼を煙でいぶし、縛って広場を回らせる行事です。

現在のような形になったのは江戸時代後期で、最初に参拝してきた人に鬼役をやらせ、鬼役には米一俵と酒一升をお礼として贈ったそうですが、こんな伝説が残っているところを見ると、昔は実際に鬼をいじめてたんですね(怒)。

『筑前国続風土記』にも、「貧民をからめて鬼と名付け、堂のあたりを引きまわり……」といった記述が残されていることから、「鬼」と呼ばれたまつろわぬ民の系譜に属する人々への迫害を組織的にかつ儀式として行っていたということは十分に考えられます。

「鬼すべ神事」についてはこちらの記事でも詳しく紹介してますので、興味のある方はぜひご覧下さい!

]

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました!]

 

 

 

© 2024 たまなぎブログ by LTA出版事業部