『遠の朝廷にオニが舞う』 『神眠る地をオニはゆく』 歴史 作品解説&エピソード

「歴史探偵」『白村江の戦い』(2023年11月29日放送分)を見て

はじめに

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

さて、2023年11月29日、NHKの人気番組『歴史探偵』で「白村江の戦い」が取り上げられました。

「白村江の戦い」については、たまなぎはもともと非常に関心がありました。

たまなぎの電子書籍でのデビュー作『遠の朝廷にオニが舞う』は白村江の戦いから10年後の太宰府から始まります。ですから、この時代の背景を把握することは必須でした。ですから、知っている話も多かったのですが、中にはびっくりするようなお話も沢山。せっかくですので番組で取り上げられた順にご紹介したいと思います。

 

白村江の戦いのアウトライン

まずはイントロダクション。

白村江の戦いは、660年に唐・新羅が百済を滅ぼし、百済が日本に助けを求めたことから始まります。当時はちょうど中大兄皇子が大化の改新を進めている最中。日本は百済の救援に応えて大軍を用意して大陸に向かいますが、663年、唐と新羅の連合軍に大敗、大陸での拠点を失います。これが白村江の戦いの戦い。

ちなみにNHKでは、「白村江」を「はくそんこう」と読んでいました。昔は「はくすきのえ」と読んでいましたが、なぜでしょう。この疑問は後程解けました。

さて、いきなり再現ドラマ! さすがNHK、なかなかの迫力です。いいなあ、いつか本当にドラマ化してくれないかな。

なんて思っていると、次々に気を惹くテロップが。

古代日本と朝鮮半島との関係?

前代未聞の作戦?

敗北の真相とは?

想像していなかった光景?

白村江の戦いは謎の多い戦い?

……わくわくが止まりません!

森田洋平アナウンサー、何と今回は韓国まで足を延ばして取材したそうです。

 

古代日本と朝鮮半島のつながり

まず国際情勢のおさらいから。当時、中国には大帝国の唐。

朝鮮半島は、唐と国境を接する高句麗・南東に新羅・南西に百済、三国が覇権を争っていました。

白村江というのは、朝鮮半島南西部の川の名前です。

なぜ古代日本はわざわざ海を渡って戦う必要があったのでしょうか?

古代日本と朝鮮半島のつながりを探るため、森田アナウンサー、走る!

ここで登場するのは国立歴史民俗博物館・高田貫太教授と大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長。

次に出てきた映像にびっくり。

朝鮮半島に……古墳が! しかも綺麗な前方後円墳!

前方後円墳は、3~7世紀の日本で盛んに作られた古墳で、日本の独特の墓の形と考えられていたのですが、1980年台から韓国南西部に15基確認されました。かつて百済があったあたりです。中には、捩環頭太刀など、日本の古墳と共通した副葬品もあり、注目を集めています。

なぜ前方後円墳が朝鮮半島にあるのか? それは今に至るまで研究が続いているそうですが、古代においては日本と百済の間に緊密な文化交流があったのは間違いありません。国境の概念が今と違う、というのです。

私たちは海は国境を隔てるものと考えがちですが、当時の人々にとっては海はむしろ人と人とを結びつけるものだったそうです。確かに、飛行機も新幹線もない時代、水上交通は重要なインフラといっても過言ではなかったでしょうからね。

さて、今度は森田アナウンサー、百済の都があった扶余へ。国立公州大学のソ・ジョンソク教授が案内してくれます。

街中に置かれた、百済聖王の像。6世紀の外交を重視した王。仏教を日本に伝えた王。『日本書紀』にも、「聖明王」の名で紹介されています。

6世紀、日本は敵対する九州の豪族を抑えて統一を進める最中だった……と解説。こ、これは筑紫君磐井のことですよね! たまなぎ興奮。

一方、百済にとっては日本は新羅の侵攻を止めるため必要な友好国。うっかり新羅が百済を攻めたら、日本に背後を突かれるから。まさに日本と百済はウィンウィンの関係だったわけですね。

 

白村江の戦い前夜

時が下って、660年。唐と新羅の連合軍が百済に侵攻!

何と、西方からは唐、東方からは新羅で、百済ははさみうち!(地図がでてきました!)

確かにこれはかないっこありません。

追い詰められた、百済の宮女たちが崖から身を投げる絵が紹介されています。(これ見たことある!と思って調べたら、扶蘇山城・皐蘭寺の壁に描かれている絵だそうです。スカートで顔を覆って飛び降りるも、飛び降りる途中にスカートが手から離れ、花が咲いたようになったことから、この岩は落花岩と呼ばれているそう。痛ましい……)

さて、友好国百済を救おうという日本が立ち上がります。

東洋大の森公章教授、キター!

当時の日本と百済には、親類関係もあった、と森教授。親戚が百済の役人だった、ということもあったそうです。

ここでちょっと「白村江」の読み方。

昔は「はくすきのえ」と教えていましたよね。

なんと、「村」をすきとよむのは朝鮮語の読み方だそうです。「白=はく」は中国語。「江=え」→日本語。

「はくすきのえ」という読み方は、中国語と朝鮮語・日本語が混じった読み方だそうです。今は「はくそんこう」「はくすきのえ」両方が教科書に併記されているそうです。

 

白村江前夜の足跡~朝倉橘広庭宮

でたー! 今度は大野城心のふるさと館・赤司義彦館長!(たまなぎ興奮)

あれ、うしろの神社はまさか?

と思ったら、でたでた、朝倉橘広庭宮!

やはり後ろの神社は朝闇(ちょうあん)神社でしたよ。

 

朝闇神社↓

 

朝倉橘広庭宮跡↓

当時の天皇は斉明天皇。それを支えるのは中大兄皇子。

彼らが大陸への出兵への足掛かりとして築いた宮が、ここ朝倉橘広庭宮です。

ここで紹介されたのが、福岡県朝倉市の恵蘇八幡宮に残された絵巻。百済の方が日本に助けを求める様子が描かれています。

友好の証として日本に預けられていた百済皇子・扶余豊璋を百済王に擁立したいと。

あら、ちらっと再現ドラマ。斉明天皇、ちらっとしか見えませんが、ちょっと若くて美人すぎない? 当時60過ぎてたよね?

おっと脱線。さて、この時、斉明天皇以下一族郎党全てが九州に移動します。もはやこれは遷都にちかい?

番組内では紹介されていませんが、万葉集の額田王の歌、「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」というのは、九州へ意気揚々と出発する様子を表しています。

 

白村江への準備を整える

さていよいよ、百済を救うべく出兵の準備が始まりますが、これには、三つの課題がありました。

それは、兵力・船・現地協力者の確保だったそうです。

まず、兵力は、九州へ向かう道すがら、次々に徴兵していったそうです。岡山県の倉敷市には、二万(にま)という地名が残されています。2万の兵士が集まったということから、この名着いたそう。

この土地の箭田大塚古墳が写されます。

でかい! 最大級の石室を持つ古墳だそうで、それだけの力を持つ豪族がいたということ。

こうやって、各地で徴兵を重ね、数万の大軍をゲットします。

 

次は船。今度は船舶歴史に詳しい東海大木村淳教授まで登場します。当時の船は平底船。朝鮮半島で発展した、大きな木材をを並べた船底が特徴の船です。輸送能力に優れていたそう。

「安芸の国で百済船が二隻建造された」ということが書紀に残っています。最先端の技術を整え、海を渡る準備。

最後に、現地協力者。鬼室福信キター! 「神のような強さ」と『日本書紀』に記された、復興の実質的なリーダーです。

扶余豊璋を彼の元に送り、新たな百済王として復興の旗印にします。

ここで、当時の斉明天皇に注目です! 北方遠征にも力を注ぎ、都では石の建造や運河を次々に建築するなど国づくりを重視しした女帝として紹介されています。土木事業については、書紀には「狂心」と書かれるなどあまり好意的ではありませんが、そこは番組はスルー。

それはさておき、女帝は当時68才。今で言うと80~90歳の感覚です。

当時は図らずも女帝の時代。唐の則天武后、新羅には善徳女王・真徳女王と女帝が続いていました。

日本に関して言えば、この頃は帝位はまだ相続が決まっておらず、実力主義でした。官僚制度も整っていません。女性でも男性でも、国をまとめられないと天皇になれませんでした。その中で2回も帝位に着いたのですから、斉明天皇はかなりの実力者だったのは間違いないでしょう。

さて、話はもどって、出兵にここまで準備したのにどうして日本は負けたのでしょう?

再び舞台は韓国へ!

 

白村江に広がる意外な風景と日本の敗因

白村江が戦いの舞台となったのは、白村江の河口付近にあった百済復興軍の城が包囲されたためです。救援の要請を受けた日本は白村江へ船で向かいます。

そこには、唐軍170艘が待ち受けており、日本側が惨敗。

いったい何が起きたのでしょう?

当時の白村江の有力候補地である、錦江(クムガン)へ向かいます。川にそって河口に出ると、そこには思いがけない光景が広がっていました。

想像と違う! 一面の干潟!? どゆこと?

いやカニさんや鳥さんはどーでもいいのです。

再び登場、ジョンソク教授。なんと、このあたりは潮の干満の差が非常に大きく、最大7メートルの差があるそうです!

船を操るのが難しい! そりゃ日本軍はそんなこと知らなかっただろうよ。

船方向を思うように変えられなかった=「艪舳不得廻旋」と日本書紀にも記述があるそうです。

つまり、日本軍は干潟にはまったのではと推測されるそうです。

とは言っても、現地をよく知る協力者が日本にはいたはず。ところが、白村江の戦いの直前、鬼室福信は扶余豊璋に謀反を疑われ、殺害されていたのです。

日本暮らしの長い扶余豊璋と、復興の中心人物・福信の間で、勢力の対立が起き、百済勢力も一枚岩ではなかったのです。

しかし、地の利がないのは唐も同じはず。ではなぜ日本が不利になったのか?

何と、唐は3年前の660年、百済を滅ぼした時に干潟の戦いを経験していたのです。やはりぬかるみに船をとられ、やなぎやむしろをしいて乗り切っていたことが記録に残されていました。

こうして日本は大敗を喫します。

 

白村江の戦い後の日本

ふたたび番組日本へ。

あ、ここは! 水城跡きた~!

ここで大野城心のふるさと館の赤司館長再び!

防塁を築いたのは、百済人の戦略。

朝鮮式山城も彼らの指導の下に作られたことは有名ですが、百済の亡命人たちの足跡は、何と近畿地方にも残っています。

関西の鬼室神社! ここは福信の弟か息子と伝えられる、鬼室集斯(しゅうし)を祀っています。

鬼室集斯の墓も残っています。

書紀によると、彼は学職頭(ふみのつかさのかみ)、今でいう大学のトップの地位を得ます。

官僚の育成、改革に百済人の力が使われます。中大兄皇子が改革を進める中、古代日本は強力な中央集権国家へと成長。というより前回の記事で紹介した岡田氏の説によれば、初めて国家としてスタートした、ということです。

白村江の戦い前夜の事情はおおむね知っていましたが、白村江の干潟には、たまなぎびっくりでした。

錦江は候補地の一つに過ぎないそうですが、干満の差が激しいことは、百済西岸のどこでも同じだそうです。船がうまく操縦できなかったことが書紀にも書き残されていることから、干潟に船をとられたことは間違いないのでしょう。

また、唐の軍隊は統率が取れているが、日本は未熟。唐のような国家を作らないと生き残れない。中大兄皇子は危機感を抱きます。軍事体制を整え、律令を作ります。水城・大野城・基肄城といった防衛網を整え、人員の把握のために戸籍を作りました。

そして数十年後、国交を復活した唐に遣唐使を送った時の唐書に、「倭の名を改めて日本と名乗った」と記されています。

前回の記事でご紹介したとおり、「日本」が建国されたのは、まさにこの時代だと言えるのでしょう。↓

 

おわりに

今回は番組の内容どおりにご紹介しましたが、白村江の戦いについては当ブログでも詳しい記事を書いていますので、ご興味のある方は是非ご覧下さい!

 

さらに、白村江の戦いから10年後、防衛網の張り巡らされた北部九州で始まる物語が『遠の朝廷にオニが舞う』とその続編『神眠る地をオニはゆく』です。こちらもどうぞご覧下さい!

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

 

 

 

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