史跡巡り 歴史

【天智帝の神降ろし】春日神社②~四王寺山から下ろされた神の真相に迫る

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さて、今回は前回の続き。

春日神社にも、天智天皇が四王寺山に祀っていた神を降ろしたという縁起がある、というお話でした。

前回の記事はこちら↓

では、王城神社と春日神社に祀られた神について、天智天皇が降ろしたという神について、考察してみましょう。

 

1.『春日神社大明神記録』と『王城大明神縁起』の違いと共通点

春日神社と王城神社。おおもとになるお話は似通っています。

共通するストーリーは次のようなものです。

天智天皇が、皇太子時代(白村江の戦い前後)に、四王寺山に祀られていた神を降ろし、新たに祀った。

この部分は変わりません。ところが、細かく見ていくと、いくつかの違いがあるのです。

①四王寺山に祀られていた神

『王城大明神縁起』-事代主神(ことしろぬしのかみ)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)

『春日神社大明神記録』-天児屋根命(あめのこやねのみこと)

②四王寺山に神を祀った人物

『王城大明神縁起』-神武天皇

『春日神社大明神記録』-記載なし

③武甕槌がもともと祀られていた場所

『王城大明神縁起』-四王寺山山頂

『春日神社大明神記録』-大和

 

2.どちらの記録が信用できるか~二つの可能性

①『春日神社大明神記録』が改変された可能性

 私は、『春日神社大明神記録』は事実を改変された可能性があるのではないか、と見ています。

 なぜなら、『春日神社大明神記録』で、武甕槌神を合祀したとされるのは藤原田麻呂。

 そして、天児屋根命は、藤原氏の祖先とされる神だからです。

 実際のところは、天智天皇が四王寺山から武甕槌を降ろして祀り、藤原田麻呂が合祀したのが天児屋根命だったのではないでしょうか。

 藤原氏にとって祖先神である天児屋根命を主祭神とするために、あえて、武甕槌と天児屋根命の祭られた順番を入れ替え、由来も逆にしたのではないでしょうか。

 そう考えると、『王城大明神縁起』とも矛盾しません。

 こう考えた場合、『王寺大明神縁起』は、概ね信用がおけるということになり、次の結論が導かれます。

「神武天皇が、もともと四王寺山に祀られていた事代主神と武甕槌神を、白村江の戦い後に下ろした。

そのうち事代主神は現在の王城神社、武甕槌神は春日神社に祀られた。

後に藤原田麻呂が、春日神社に祖先神である天児屋根命以下計3柱の神を合わせて祀り、天児屋根命を主祭神とした。

 

②『春日神社大明神記録』も『王城大明神縁起』も真実を隠している可能性 

また、もう一つの可能性もあります。

 そもそも、共通の部分、

天智天皇が、皇太子時代(白村江の戦い前後)に、四王寺山に祀られていた神を降ろし、新たに祀った。

以外は、二つの縁起文はほとんど共通点を持ちません。

両方とも、この部分だけが真実を伝えており、他の部分はそれぞれの神社で付け加えられており、事実でない可能性も捨てきれません。

二つの縁起文に矛盾がある以上、「両方とも嘘」か「片方が嘘」であって、「両方とも真実」はありえないわけですから。

となると、四王寺に祀られていた神はそもそも何者なのか?

という謎が新たに生まれるわけです。

 

『王城大明神縁起』が改変された可能性の検討

『春日神社大明神記録』のみが改変されたとするのはフェアでないので、この可能性も考えてみましょう。

『春日神社大明神記録』が正しいとすると、そもそも四王寺山に祀られていた神は、天児屋根命のみ、ということになります。(もちろん、春日神社に関係がないので書いていないだけ、という可能性もありますが)

そうすると、王城神社に天智天皇が神を降ろした、という事実自体がないことになってしまいます。すると、『王城大明神縁起』が伝わっていること自体に無理が生じてしまいます。

また、『王城大明神縁起』に記録のある武甕槌神が春日神社に実際に祀られていることも、偶然にしては出来すぎています。

やはりこの可能性は少ないと考えられます。

『王城大明神縁起』のみが改変されていると考えるより、どちらにも真実以外が含まれていると考える方が自然。②と同様の結論になってしまいます。

四王寺に祀られていた神はそもそも何者なのか?という大きな謎を残して終わるだけなのです。

 

その謎を解く鍵は、実は第3の神社にありました。

次回は、「天智天皇が同時期に山から下ろした3柱目の神を祀られた神社」へ、謎を解く旅に出かけます。

乞うご期待!

 

 

 

© 2024 たまなぎブログ by LTA出版事業部