『遠の朝廷にオニが舞う』 作品解説&エピソード

『遠の朝廷にオニが舞う』の世界㉕「大宰府」と「太宰府」その2(by 珠下なぎ)

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

 

今日は前回の続きです。

 

古代における「だざいふ」は、「大宰府」で朝廷直轄の地方統治機関であり、特に九州の大宰府は外交と防衛の拠点であったため、重要な場所として後世に残り、やがて「大宰府」といえば九州の大宰府のみを指すようになった、というのが前回のおおまかな内容です。

では、「太宰府」とはいつごろから表記されるようになったのでしょうか?

 

実は、最古の「太宰府」の表記は、日本ではなく中国の浙江省にある石碑にあります。

これは平清盛が太政大臣となった頃に成立したとされており、最初の「大宰府」の表記から実に400年も後の時代になります。

日本でもっとも古い「太宰府」の表記は、臨済宗の開祖・栄西が書いたものが最古とされています。

栄西は1175年から1187年まで博多に滞在しますが、その時に書いた文書の中に、初めて「太宰府」という文字が見えます。

この時の「太宰府」は筑前国の地名の一つとして登場し、「太宰府は地名、大宰府は役所名」と言われる説の根拠になっています。

 

けれど、中世以降も明らかに地名を指す「だざいふ」であっても「大宰府」の表記が残っている例も見られます。ただ、原因ははっきりしませんが、時代が下るにつれて「大宰府」よりも「太宰府」の表記が増え、地方自治体の名称を正式に定める手続きが行われた明治時代には、ほぼ「太宰府」の文字が使われるようになりました。

それは、役所としての「大宰府」が終焉に向かったことと無関係ではないかもしれません。

 

ですから、明治以降は、ほぼ「太宰府」の文字が使われるようになり、現在の史跡「大宰府政庁跡」も、明治期の記録では「太宰府政庁跡」と記されているそうです。

 

「大宰府」が古代の役所、「太宰府」が地名、とはっきり区別表記されるようになったのは、実は昭和43年、大宰府政庁の大規模な発掘調査が行われたのちのことで、実は最近の話だそうです。

 

このブログおよび「遠の朝廷(みかど)にオニが舞う」では、「だざいふ」といえば、古代の役所としての「大宰府」およびその周辺の土地を指すことがほとんどであるため、ほぼ「大宰府」の表記としています。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

(参考文献 森弘子『太宰府発見』(海鳥社))

 

 

 

 

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