作品解説&エピソード 『遠の朝廷にオニが舞う』

『遠の朝廷にオニが舞う』の世界㉔「大宰府」と「太宰府」その1(by 珠下なぎ)

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

 

今回はちょっと話題が変わります。

(ずっとオニ関係の記事を書いていても話題は尽きないのですが……。作品の内容からどんどん離れてしまうので(笑))

 

今更ですが、「太宰府」と「大宰府」の違いについて。

 

「遠の朝廷(みかど)にオニが舞う」では、「だざいふ」を「大宰府」と表記しています。

一方、現在の福岡県にある「だざいふし」は「太宰府市」と表記していますね。

誤植じゃないか? と思われた方もいらっしゃるかもしれません。

 

けれど、「大宰府」と「太宰府」。これは「どちらも正しい」のです。

 

ちょっと歴史に詳しい方でしたら、「いやいや、そんなの常識でしょ。役所の名前が『大宰府』で、『太宰府』は地名でしょ」と言われるかもしれませんし、「『大宰府』が古い呼び方で『太宰府』は新しい呼び方なんじゃないの?」と認識されている方もいるかもしれません。

 

これも「どちらも正しい」のですが、正確に言うと事態はそう単純ではないようなのです。

 

最古の「だざいふ」は、「大宰府」と書きます。

そもそもこれは、「天皇の命に従って地方の政治を行う機関」というほどの意味で、大宝律令制定(701年)以前では、九州北部だけでなく、東国・播磨・周防・吉備などに置かれ、朝廷直轄の地方統治機構だったと考えられています。

 

けれど、大宝律令が制定されると、地方の政治には国司制が整えられ、他の地方の大宰府は国司に移行して廃止されます。

 

なぜ九州の大宰府だけが残ったのでしょう?

 

それは大宰府が単なる朝廷の出先機関というだけでなく、大陸に最も近く、外交と防衛の拠点であったからなのです。

 

白村江の戦いの後、天智天皇は大宰府を中心に朝鮮式山城や水城を築かせ、また壱岐や対馬に有事の際の狼煙の合図を行う制度を整え、大宰府の防備に当たります。

このころの大宰府は、軍事拠点としての性格が強かったのです。

 

やがて大陸との緊張が解けると、大宰府は朝鮮半島や中国からの使節を迎える、外交の拠点になります。

 

大宰府からさらに1kmほど南に下った場所には、古代の客館跡があり、酒宴に使われたと思われる食器などが出土しています。最近になって公園として整備されました。

 

ちなみに大宰府の長官は「筑紫大宰(ちくしだざい)」。作品中では、皇族である栗隈王(くりくまのおおきみ)がその任についていますね。

それほど重要な任務だったのです。

 

作品中に出てくる、壬申の乱の際に大友皇子から援軍を乞われた栗隈王が、大宰府の防衛を理由にそれを断った、というのは実話です。

結果的には大海人皇子が勝つわけで、栗隈王はそれを見抜いていたのかもしれませんし、大海人皇子の長男の高市皇子の外祖父は九州の有力豪族・宗像の君徳善でしたから、大友皇子に味方したら九州の統治が危うくなる、と思ったのかもしれませんが(このあたりは私見です)。

 

長くなってしまいました。

では、「太宰府」の表記はいつくらいからされるようになったのか?

「大宰府」とどう違うのか?

については次回に譲りたいと思います。

 

 

 

 

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