『遠の朝廷にオニが舞う』 作品解説&エピソード

『遠の朝廷にオニが舞う』の世界㉜古代日本と天然痘その2(by 珠下なぎ)

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

 

本日は前回予告したとおり、「遠の朝廷にオニが舞う」の時代と近い時代に起きた、天然痘の大流行についてお話ししたいと思います。

 

天平7~9(737~739)年、日本では天然痘が大流行します。

この流行は西日本から始まり、いったんおさまったもの天平9年に勢いを盛り返し、畿内にも流入して都の人々を恐怖に陥れます。

西日本から始まった、つまり大陸から持ち込まれた可能性が高いということですね。

 

庶民だけでなく、貴族も次々に病に倒れました。中でも、藤原不比等の息子たち、武智麻呂・宇合・房前・麻呂の4兄弟までもが犠牲になったことは有名ですね。

(藤原不比等は皆さんご存じのとおり、天智天皇の重臣・藤原(中臣)鎌足の次男で、天武・持統天皇にも仕え、律令国家の基礎を作った人です)

 

このくだりは、2017年に出版された澤田瞳子さんの小説『火定(かじょう)』に非常に詳しく描かれていますので、興味のある方はぜひご覧になってみてください。

 

もちろん創作ではあると思いますが、病に効くという偽の御札を作って儲けようとする不埒者が現れたり、それにひたすらすがる人々、絶望のあまり正気を失う人々などが、非常にリアルに描かれています。

 

ところで、この時代の医療制度は、大陸から医療知識を輸入しながら次第に整いつつある途上でした。

各国に一人の医博士を置き、医師やその候補生である医生、その補佐をする人々で成り立っていたようです。

 

ですから、医師にかかれるのはごく上流階級の人々に限られていました。

天然痘の大流行を受けて、庶民に対しては「太政官符」というお触れが出されました。

これには、体を温かくして冷やさないこと、生水は避けること、下痢があるときは韮や葱の煮たものを食べさせること、などが書かれています。

庶民はこれに従って養生するしかなかったようです。

 

ただ、天然痘については現在でも特効薬はないので、貴族向けに処方されていた数種の漢方も、どこまで有効だったかは疑問符がつきます。

医師にかかれる上級貴族にも、そうでない庶民にも、天然痘は同じくらい恐ろしいものだったと思われます。

 

ちなみに韮や葱については、貴族向けに描かれた「典薬寮勘文」には書かれていません。韮や葱は刺激物なので、漢方医学の観点からはむしろ避けるべきとされていたようです。

おそらく、理論とは別に、経験的に得られた(もしくはそれを輸入された)知識だと思われます。

事実、11世紀の貴族・源俊房は、天然痘に罹患して下痢がひどかった時、医師が発熱中は韮を食すべきでないと言ったので我慢していたが、熱が下がった後「太政官符」の教えに従って韮を食べると、下痢がたちどころにおさまったとつづっています。

庶民の間では、発熱中であっても天然痘の下痢には韮を食するのが一般的な治療として浸透していたと俊房は書き残しています。

 

天然痘の大流行が起こったのは8世紀初めですが、この時の「太政官符」や「典薬寮勘文」の記述は、この時代の医療は10世紀に成立した日本最古の医書「医心方」と比べても遜色がありません。

律令国家のもと、7世紀末から8世紀前半にかけて、急速に医療制度が整えられていったことがうかがえるのです。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

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