皆さんこんにちは、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます。
さて、今日からはまた歴史ネタに戻ります。
前々回までの2回の記事で、
「天智天皇が、もともと神武天皇が四王寺山に祀っていた2柱の神・武甕槌と事代主を、王城神社と春日神社に下ろして祀った」
というお話をさせて頂きました。
王城神社に下ろされたのは事代主。
では、春日神社に下ろされたのは武甕槌のはず。
実際春日神社の縁起はどうなっているのでしょうか?
文献をたどり、また、実際に春日神社にもお参りしてきましたのでご報告させて頂きます。
1.四王寺山から下ろされた神
先日ご紹介した『太宰府・宝満山・沖ノ島』には、春日神社に伝わる『春日神社大明神記録』神社の縁起をこのように紹介しています。
斉明天皇のとき、中大兄皇子が四王寺の山頂から此の地に天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀り、その後、神護景雲2年(768年)藤原宇合の第五子藤原田麻呂が、大和の春日大明神を迎えて春日神社を創立。 (引用元;伊藤まさ子『太宰府・宝満山・沖ノ島』)
『太宰府・宝満山・沖ノ島』には、「もともと四王寺山に神として祀られていたことは同じ」としていましたが、私はこの違いが気になりました。
武甕槌神はどこに行ったのでしょう?
ということで、実際に春日神社へ行って参りました。
早速案内板を探します。
案内板によると、祭神は天児屋根命が筆頭にあげられており、二番目に武甕槌命、続いて経津主命、姫大神となっています。
「天智天皇皇太子としてこの国におわします時、この地に天児屋根命を祀り給える神籬(ひもろぎ)の跡と言い伝う。神護景雲2年(768年)、藤原田麻呂大宰大弐として大宰府に在りし時、大和国春日より、武甕槌命、経津主命、姫大神の三柱をこの神籬に迎え併せ祀り、社殿を創建して春日大明神と讃え奉る」
とあります。天智天皇が皇太子としてこの国におわします時というのは、白村江の戦い前後のこととしか考えられません。まとめると、
①天智天皇が白村江の戦い前後、四王寺の山頂から下ろした天児屋根命を祀っていた。(7世紀後半)
②768年、藤原田麻呂が武甕槌命、経津主命、姫大神の三柱を大和から迎えて祀り、社殿を創建した。
これは何を意味するのでしょうか?
帰ってからゆっくり考察することにして、まずはお参りを。
2.春日神社の境内を参る
先日訪れた王城神社と違い、こちらは地元でもメジャーな神社。
参拝客も多く、鳥居も立派で威容を誇っています。
二の鳥居から社殿を望みます。
振り返ってみると、こちらもご神木が立派です。社殿ができる前は、ここが神の依り代となったのでしょう。
社殿です。こちらは天正14年(1586年)、島津勢に焼かれて全焼した後、寛永4年(1627年)に再建されたそうです。
隅っこには薬師如来を祀ったお堂がありました。
神仏習合の名残ですね。
次回の記事では、王城神社と春日神社のそれぞれの縁起から、「四王寺山から下ろされた神」についての真相に迫りたいと思います。
乞うご期待!
最後までお読みいただき、ありがとうございました!