はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
本日は古代史研究フォーラム「筑紫君磐井の乱の実像に迫る」報告、今度こそ最終回。
講演後のトークセッションで、たまなぎが印象に残った話題をピックアップしてご紹介する記事、2回目です。
筑紫君磐井は岩戸山古墳に埋葬されているのか?
これですよ、これ!
素人からしたらとても気になる話題ですよね。
たまなぎは。実は、岩戸山古墳は磐井の生前に築かれたものですから、磐井は埋葬されていないと思っていました。だって記紀と『筑後国風土記逸文』で磐井の最期が異なるくらいですから、磐井のご遺体は行方不明なのではないかと思っていたのです。
実際のところ、磐井が岩戸山古墳に葬られているかどうかは、石室が未発掘なので確定はできないのです。
ところがところが!
石室は未発掘でも、石室の周辺に、磐井の死後も追悼のための祭祀を行った跡が残っているというのです。
実は、古代においては、敵であってもその遺体は敬意を払ってきちんと葬ったそうです。
乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿親子は中大兄皇子に殺されますが、二人の遺体は生前本人たちが用意していた墳墓に葬られたそうです。
また、磐井の死後、筑紫地方の豪族を従わせるためには、敗者である磐井にも敬意を払って弔うことが必要だったのではないかという意見も出ていました。
確かに、その後の統治を考えれば、磐井とつながりの強かった現地の有力者の反発を買うのは得策ではないでしょうね。
ここで、「磐井の墓はもし発掘したとしたらどんなふうになっているかと思いますか?」と、コーディネーターの朝日新聞社・中村俊介氏から無茶ぶりが。
「ここはキンキラキンの装飾古墳でしょう!」の答えに会場は湧いていました(笑)。
どうなってるんでしょうねえ。ぜひ発掘してほしいです。
有明首長連合はどちらについた?
たまなぎは以前の記事でも述べたように、有明首長連合――筑紫の君磐井を中心に、文化的・政治的につながった有力者たちは、豊の君をのぞいては最終的にはヤマト王権の側についたと『筑紫と南島』(吉村武彦他、角川選書)などの文献で読んでおり、そのとおりだと思っていました。
しかし、この話題については、実は決着がついていないようです。
北部九州の豪族のうち、有明首長連合外で早くからヤマト王権と結びついていた宗像氏は最初からヤマト王権の側についただろう。
豊の君は、『筑後国風土記逸文』で磐井が大分地方に逃げたと書かれていることからも、最後まで磐井に味方しただろう。
このあたりはパネリストの皆さんの中でも意見が一致しているようでした。
意見が別れたのは、火の君と水沼の君。
文献学を専門にしておられる、九州歴史資料館の学芸員・酒井氏は、火の君が乱後に有明海方向へ進出していること、また、水沼の君は景行天皇や雄略天皇の段にヤマト王権と深く関わっていた記述があったことなどから、火の君も水沼の君も、ヤマト王権の側についたと考えておられるようです。
一方、同じく九州歴史資料館の学芸員の小嶋氏と、久留米市文化財保護課の小澤氏は、水沼の君と筑紫の君の文化の類似の具合からして、両者は親密であり、水沼の君は磐井についたと考えておられるようです。
また、小嶋氏は、火の君の中に、「火の中の君」という名称があることから、火の君は少なくとも3氏に分かれており、一枚岩ではなく、氏族によって磐井に味方したものとそうでないものがいたのではないかという独自の説を唱えておられました。
なるほど。しかし、たまなぎはこんなふうに思いました。
水沼の君が磐井に味方したのだとしたら、磐井はどうして大分地方に逃げたのでしょう(『筑後国風土記逸文』の記述)。筑後川を船で下って有明海に出た方が、逃走ルートとしては安全だし早いような気がするのです。それをしなかったのは、水沼の君がヤマト王権についたからではないのかな。などと考えてしまいました。
ちなみに、拙著『神眠る地をオニはゆく』の中では、たまなぎは宗像氏の子孫、海人にこんなふうに語らせています。
「いくら正義をふりかざそうと、強大な軍事力を持つ朝廷と正面からぶつかっても勝ち目はない。磐井はよく持ちこたえたが、結局はほろんだ。最初は磐井の側についていた筑紫肥(ひ)の君も最後は朝廷側についたし、磐井とかつてから交わりの深かった水沼(みぬま)の君も、磐井に加勢はしなかった。戦いになれば、結局は苦しむのは民だからだ。我らも……磐井の側につくわけにはいかなかった」
(珠下なぎ『神眠る地をオニはゆく【上】』より)
航海術に長け、朝鮮半島とも交流しながら、早くからヤマト王権と結びつくことで繫栄した宗像氏。彼らは磐井とは異なる道を選び、磐井の乱後も勢力を拡大します。
この作品は、磐井の乱からさらに100年以上を経過した、天武天皇即位後の大宰府を舞台にした万葉ファンタジーです。ご興味を持たれた方はぜひこちらをご覧下さい!
最後の戦い・御井
脱線失礼しました。話を元に戻しまして。
磐井の乱は一年以上にも及びましたが、その最後の決戦は御井郡―現在の久留米市辺りで行われました。
ここでの戦いについて、久留米市文化財保護課の小澤氏からは、大変興味深いお話が聞けました。
ここ御井は、筑紫平野にあり、真ん中には筑後川が流れています。
筑後川の南側には高良山があるのですが、ここは自衛隊の方などを案内すると、大変喜ばれるそうです。なぜなら、ここからは筑紫平野が一望できるためで、ここに登ると筑後川の北から攻めて来る朝廷軍の様子が、装備から数・配置まで全て把握できるのだそうです。
両軍は筑後川をはさんで対峙しますが、古代、川の周囲は湿地帯です。
馬は蹄を取られ、大変進みにくいそうです。
そのため、朝廷軍はなかなかここを突破できず、戦いが長引いた。
逆に言えば、ここを突破されれば簡単に本拠地の八女まで攻め込まれてしまう。御井の戦いが最後の戦いとなったのは、そういう事情もあったようです。
まとめ
・岩戸山古墳石室は未発掘だが、筑紫の君磐井が埋葬されている可能性が非常に高い。
・磐井の乱に際して有明首長連合の豪族たちがどちらについたかは、研究者の間でも意見が別れている。
・御井の戦いが最後の戦いになったのは、地形の特徴に大きな理由がある。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!