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鹿児島・霧島市の二つの隼人塚

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さて、先日鹿児島を旅行して、以前から気になっていた「隼人塚」を訪問致しました。

実は鹿児島県霧島市には、「隼人塚」と呼ばれる場所が二か所あります。

どうしてでしょう?

今回は両方訪問できましたので、それぞれについてご紹介したいと思います。

 

薩摩隼人について

まずは、薩摩隼人についてざっとおさらい致しましょう。

薩摩隼人は、古代に現在の鹿児島県本土部分に住んでいた人々です。

風俗や習慣が大和朝廷を中心とする地域の人々と異なり、しばしば朝廷に反抗しました。

6世紀末から7世紀にかけて朝廷に帰順しましたが、720年には大隅半島で隼人の反乱と言われる大きな反乱を起こしました。この反乱は大伴旅人らによって鎮圧され、以後、完全に大和朝廷に服属しました。

 

隼人塚

隼人塚の概要

一般的に言われる隼人塚は、鹿児島県霧島市にあるこちらです。

 

三基の五重の塔の周囲を四体の四天王像が囲む作りです。

この隼人塚の四天王は、いずれも正面に獅子の顔を据えた「獅子噛みの兜」と言われるものです。

四体とも兜をかぶった四天王像は、全国的にも珍しいそうです。

 

隼人塚は仏教遺跡?

この隼人塚は、720年の隼人の大乱で殺された隼人たちの霊を慰めるために建立されたと伝えられていましたが、現在では仏教遺跡と見られているそうです。

 

江戸後期に薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』によると、正国寺というお寺が現在の隼人塚の場所にあったことが分かっています。昭和58年、隼人町内山田宇都山の正国寺跡から発見された石仏には、国分寺の石塔に刻まれているのと同じ「康治元年(1142)」の年代が刻まれており、国分寺との関連があったお寺と考えられているそうです。

 

つまり、少なくとも平安末期にはここには国分寺と関連の深い寺があった。だから隼人塚も仏教遺跡との見方が強くなった、ということでしょうか。

 

隼人塚資料館

隼人塚の横には資料館があり、隼人関連の資料が豊富に展示されています。

こちらは隼人の盾。

平城宮の井戸跡から、転用された井戸枠として発見された16枚の板は、「延喜式」隼人司の条に記されている隼人の楯であることが明らかにされました。この楯を持って、隼人たちが朝廷の儀式に臨んだものと考えられています。長さは5尺もあり、かなり大きいです。

他にも、隼人に関する年表など、初心者にも分かり易く隼人の歴史が示されています。

 

もう一つの隼人塚(首塚)

隼人の首塚

もう一つの隼人塚は、「隼人の首塚」というなにやら恐ろし気な名前で呼ばれているもので、先の隼人塚から4kmほど離れた場所にあります。

田圃の真ん中にあり、非常に分かりにくいです。

 

首塚と儀式の謎

一応沿道には案内板が立っています。

「隼人塚(隼人の首塚)

江戸時代末期に書かれた「三国名勝図会」には隼人塚のことを次のように書いています。

『本社(止上神社)の南西、三百十六間にあり、水田の中に、小(こまか)き林叢森然(りんそうしんぜん)たり、是を隼人塚と號(ごう)す、隼人が首塚なりといふ』

この塚は、養老四年(七二〇)隼人の反乱で殺されたハヤトの霊を鎮めるために造られたといわれています。以前は旧暦正月十四日の初猟の日に獲った猪の肉を、三十三本の竹串に刺し、それを塚前に立てて祭事を行っていました」

 

猪の肉を串刺しにして儀式を行う……?

鎮魂にしてはちょっと血腥い儀式なような気もします……が、この件に関してはまた後日考察と致しまして。

 

近づいてみるとこんな感じです。

隼人塚までは畦道がありますが、結構狭いので、見学に行かれる方は田圃に落ちたり作物を傷つけたりしないよう、十分にご注意くださいね。

 

まとめ

・「隼人塚」と呼ばれるものは鹿児島県霧島市に二か所あり、共に隼人の霊の鎮魂のために作られたと言われています。

・一方は仏教遺跡であり、一方は首塚で、両者は約4km離れています。

・仏教遺跡の方の隼人塚には、資料館が併設されており、隼人に関する資料が見られます。

・首塚では、近年まで、初猟の猪の肉を串刺しにして捧げるという儀式が行われていました。

 

最後までお読み下さって、ありがとうございました!

 

 

 

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