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「鬼すべ神事」の真実に迫る②~「鬼すべ神事」は「異人殺し」なのか?

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

さてさて今日は、鬼すべ神事が実際どのように行われるかをご紹介し、「鬼すべ神事」とそれにまつわる怖い昔話が、果たして「異人殺し」と言えるのかについて考えたいと思います。

 

1.鬼すべ神事の実際

前回の記事でもご紹介したように、「鬼すべ神事」が現在のような形になったのは江戸時代以降。では、現在の「鬼すべ神事」はどのように行われているのでしょうか。

「鬼すべ神事」のタイムスケジュールは次のようになっています。

15時 追儺祭本殿祭

16時 本殿で大町(鬼役)に鬼面が渡される

17時 大町で鬼面飾祭

17時半 新町・五条(鬼警護役)が浄火を受けたいまつに火がともされる

19時 氏子会長が五条公民館を出発、燻手・鬼役・警護役が各町から繰り出す

その後、燻手・鬼役・警護役は「鬼じゃ、鬼じゃ」と気勢を上げながら天満宮境内へなだれこみ、鬼すべ斎場でクライマックスの行事が行われます。

クライマックスの行事は次のような手順で行われます。

①宮司以下神職5名が鬼すべ堂に入り、祭壇正面で立礼式の祭事を行う。

 

②禰宜が燻カマの祓いをし、忌み火がリレー式に運ばれて燻カマに火が移される。燻カマは、藁と生松葉を積み上げたもので、当日用意されます。

 

 

③燻手が煙を堂内に送り込み、鬼警護役が左右の板壁を叩き破り、鬼を迎えに行く。(鬼は48か所を縄で縛られ、鬼すべ堂の近くで待機している。)

左右の開いている壁はこのためだったのですね。行事のたびに板壁が作られ、破られるということです。

 

④鬼は堂内を7回半回り、堂外を三回半回る。神職・氏子会長は鬼が回って来るごとに煎り豆を投げつけ、卯杖で打つ。

 

2.昔話との比較

さて、前回の記事でご紹介したように、『太宰府市史』によると、かつては「参拝に来た人を捕まえて鬼役とする」ことが実際行われていたといいます。

そして、昔話では「煙に燻され炎に巻かれたその人は、恐ろしさのあまり逃げ出し……」となっています。

ところが、現在の鬼すべ神事では、窯の中で藁と松葉を燃やして煙を出して燻し、その後に鬼が堂内を回るので(それでも相当煙たいとは思いますが)、「炎に巻かれ」という表現は少し大げさのような気がします。

ひょっとしたらこの昔話の頃は、今ほど安全に行事が行われていなかったのかもしれません。これについては想像の域を出ませんが、実際に鬼役が命の危険を感じて逃げ出すような手順だった、という可能性もありえるのではないかと、この昔話を読んでいると思えてきました。

 

3.鬼殺し・異人殺し

では、「鬼すべ神事」は果たして「異人殺し」と言えるのでしょうか。

「鬼すべ神事」は追儺の一環です。追儺は、以前に当ブログでご紹介したように、大陸からの疫神信仰を起源とした、疫鬼=疫病を運ぶ「鬼」を退治する儀式で、節分のもとになった行事です。

鬼は、災厄をもたらすという一面を持つ一方で、鉄を作る民族であったり、古い山の神であったりという側面も持ち、福をもたらすという一面もあります。

異人も同様です。民俗学者の折口信夫氏は、異人=マレビトを人に福をもたらす来訪神と位置付けました。しかし、異人殺しの伝承に見られるように、閉じられた村社会の人びとは、異人を福をもたらす存在としてだけではなく、殺されることもあるもの、つまり殺意や敵意の対象としても見ていたことを、『異人論』で小松和彦先生も指摘されています。

①村社会の外部の存在 ②福をもたらすこともある ③殺意や敵意の対象である

この三つの特徴は、「異人」と「鬼」に共通しているものと言えるでしょう。

「鬼すべ神事」で退治されるのは、「鬼」です。

そしてその鬼役は、近年まで参拝に来た人=外部の人間に負わされていました。

この外部の人間は一般人であり、いわゆるマレビト=定住の場所を持たず、村から村へ渡り歩く巫女や座頭や山伏とは違うかもしれません。

けれど、米一俵と酒一升という報酬にもかかわらず、村内部の人間が鬼役をやらなかった、それを外部の人間に負わせた、というところには何らかの意味があるように思います。

村の内部の矛盾の辻褄合わせ――家が急速に発展したのちに何らかの災厄に見舞われるというような――を説明するために語り出された、典型的な「異人殺し」と、「鬼すべ神事」は同一のものとはいいがたいでしょう。

しかし、「異人殺し」と「鬼すべ神事」にはいくつかの共通点があります。

一つは時代。異人殺しの民話の時代背景は、座頭や六部という言葉から見て主に江戸時代付近であると考えられるます。鬼すべ神事が今のような形になったのも江戸時代です。

もう一つは二重の排除の論理。異人殺しは、村社会の特定の家を排除するために異人の排除という伝承が語り出されました。鬼すべ神事では、排除されるべき鬼を、外部の人間に演じさせ、それを排除する。いずれも二重に排除の論理が使われています。

最後に繰り返しになりますが、「鬼」と「異人」の共通性。福をもたらす一方で殺意や排除の対象となり、村社会にとって外部の存在である。

異人殺しと鬼すべ神事は、同一のものとは言えませんが、共通の心性が作用しているように、私には思えました。

「追儺」と「鬼の二面性」については、こちらの記事でもご紹介していますので、興味を持って下さった方は、ぜひご覧ください!

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最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

(参考文献『太宰府市史 民俗資料編』,小松和彦『異人論』1995年,ちくま学芸文庫)

 

 

 

 

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