作品解説&エピソード

【天智帝の神降ろしfinal】天智帝は何のために神を降ろしたのか?

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さて、一回間を置きましたが、今回は天智帝の神降ろし。最終章。

「そもそも天智帝はなんのために神を降ろしたのか?」その謎に迫ります。

 

1.『太宰府・宝満山・沖ノ島』の著者、伊藤まさこ氏の説

「天智帝の神降ろし」を紹介した『太宰府・宝満山・沖ノ島』の著者、伊藤まさこ氏は、同書の第4章で「倭国は二度滅亡した」と述べています。

ざっくりまとめると、次のような説です。

九州には邪馬台国の流れを引き継いだ王権が継続していたが、磐井の乱を最後に一度大和王権に敗れた。その後北部九州では王権の交代がおき、白村江の戦いに軍を出したのはその王権だった。その王権は白村江の戦いで壊滅的打撃をこうむり、そこに中大兄皇子・斉明天皇を中心とした大和王権が進出し、九州王朝を完全に滅ぼした。

 

九州王朝説を唱えているのは、『邪馬台国はなかった』で有名な古田武彦氏や彼に影響を受けた人たちなど他にも大勢いるのですが、伊藤まさこ氏の『太宰府・宝満山・沖ノ島』は、九州の主要な神社が同緯度や同一直線状に並んでいることなどから、白村江以前の九州には、天体の動きから暦を読んだ独自の王朝があったと主張する独特の説です。

伊藤氏は、さらに、こう述べています。

「九州の王権の出兵への制裁と敗戦の処理に、大和は征西した。もとより百済救援は二の次、九州に再度王権を復活させないための出兵だった。

斉明帝は朝倉の宮で、中大兄は長津宮でそれぞれの仕事をした。

(中略)

神祀りをしていた四王寺山は太宰府の移転のために、大野城に造り変えられ、基山の神も降ろされて筑紫神社に合祀された」(伊藤まさこ『太宰府・宝満山・沖ノ島』)

 

2.斉明帝と天智帝が北部九州で何をしたか

『太宰府・宝満山・沖ノ島』には書かれていませんが、この時斉明帝が何をしたか、これについて独自に考察してみました。

斉明帝は、白村江の戦いの際、実質的に軍を率いていた中大兄皇子(=天智帝)らと共に、北九州に入ります。

当時60歳を超えた高齢であったこともあり、朝倉に「朝倉橘広庭宮」という宮を建設し、そのままそこで最期を迎えます。(斉明天皇終焉の地を訪ねた時の記事はこちら↓)

この時の斉明帝の行動を見てみましょう。日本書紀には次のように記されています。

「宮建設のため、朝倉の社の木を伐り払い、そのため雷神が怒って御殿を壊し、鬼火が宮殿に現れ、そのため舎人に病んで死ぬものが多かった」

斉明帝は、即位直後に雨乞いを成功させるなど、巫女王としての性格を強く持っています。

ところが、この時の行動は、とても巫女王らしくありません。

理由はこういうことではないでしょうか。

それは、「朝倉の社」の神が、彼女らの神ではなかったから。

朝倉の神は、「朝闇(ちょうもん)神社」と言われ、「あさくら」の名の由来となったと現地に書かれています。日本書紀に「朝倉」の名が出ていることから、斉明天皇がここに宮を建てるより古い神社だったのは明らかです。

また、基山の神も、大和王権の神ではなく、筑紫の君と肥の君が独自に祀っていた神でした。

そうなると、四王寺山に祀られていた神々も、神武天皇が祀っていたというのは後付けかもしれません。それならば、四王寺山から降ろした神々を祀った王城神社・春日神社の縁起に矛盾があるのも納得できます。四王寺山から降ろされた神々は、本来土地の神で、大和王権とは関わりのない神だった。

そもそも本当に大和王権の神々であれば、山城にするという理由で移動させる必要はないはずです。逆にその神々の力を借りようと考えるのではないでしょうか。特に武甕槌神などは、出雲の神々を打ち負かした強い神様なのですから。

私自身は九州王朝にはやや懐疑的な立場です。

しかし、九州王朝説とまでいかなくても、天智帝・斉明帝がこの時行ったのは、「土地の神々を排し、新しい大和王権中心の祭祀体制を整えることだった」という解釈は、大いに説得力のあるものではないでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

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