目次
はじめに
皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
初めての方は初めまして。心療内科医でゆるく作家活動をしております、珠下なぎと申します。
今日も来て下さってありがとうございます!
最近のベルばら関係の記事には、とても沢山のアクセスと反響を頂いています。
ありがとうございます。
今回は、前回に引き続き、オスカル&アンドレについて。(前回の記事はこちら↓)
昭和アニメと原作、劇場版の違いを紹介しながら、二人の絆や、それぞれの描き方の違いなどについても考察します。
昭和アニメの独自解釈~性を意識したキャラづくり
オスカルとは「別人格」であることが強調されたアンドレ
昭和アニメは以前にも書いたように、オスカルの「女性性」を強く意識した描き方になっています。
そして、アンドレについてもそれは同様で、徹頭徹尾オスカルに寄り添い、オスカルのために生きる原作アンドレに対して、昭和アニメアンドレは、自立した一人の男性としての性格が強く描かれています。
アンドレが初めてオスカルの前で「男性」であり、オスカルと別の一人の人間であることを意識させるのは、原作では令和劇場版ではカットされた例のシーンです。(酔いつぶれたオスカルをお姫さま抱っこして帰るシーンはオスカルが起きていたかどうかわからないのでノーカンとして)
しかし、昭和アニメ版では、もっと早い段階から、単なるオスカルの影ではなく、一人の自立した人間として意識してアンドレを描いているように思います。
一番象徴的なのは、「黒い騎士エピソード」。最初、オスカルは、夜毎遠乗りに出かけるアンドレを、黒い騎士ではないかと疑います。
やがて誤解は解けますが、アンドレが夜毎出かけていたのは、フランス革命の土壌となった、平民たちの勉強会に参加していたからでした。当時のフランスの階級社会に疑問を持ち、平民たちを啓蒙する、後に革命側の指導者となるだろう人々が行っていたものと思われます。
アンドレは彼自身の耳で、「新しい時代の風」を聞き取ろうとします。それは古い貴族社会に生きるオスカルのためでもあったのですが、アンドレが平民であり、オスカルとは違う立場で激動の時代を見つめていることを強く感じさせるエピソードとなりました。
昭和アニメには賛否両論ありますが(たまなぎも全肯定ではない)、アンドレを「オスカルの影」にとどまらず、「一人の自立した人間」として描こうと努力した点は、大変良かった点だと思います。
後半、特に意識される性的特徴
原作・旧アニメ版においては、フェルゼンへの片思いを知られたオスカルは、フェルゼンと永遠の別れをします。(原作ではフェルゼンから「もう会えない」とがっつり振られ、アニメ版ではオスカルから「これで終わりだ、お別れです」と別れを告げるという違いはありますが)
ショックを受けたオスカル。旧アニメ版では「女も、甘えも忘れさせてくれるほど男でなければできない任務につきたい」と近衛隊を辞めます。そして、アンドレにも、「いつまでもおまえに甘えているわけにはいかない。もう私の供はしなくてもよい」と拒絶します。
原作ではアンドレは、オスカルの父のジャルジェ将軍の命で、オスカルから目を離さないためにフランス衛兵隊に入隊しますが、旧アニメ版では、オスカルのそばから離れないため、自らの意志で、酒場で知り合ったアランのコネでフランス衛兵隊に入隊します。
憤るオスカルに、「お前を守れるのは、俺だけだ」と告げるアンドレ。
原作よりもより女性性を強調されたオスカルに対し、アンドレはより自立性を、男性性を強調して描かれています。
革命前夜に二人が結ばれた後、平民と軍隊の対立を前に、どちらにつくかの選択を迫られた際も、オスカルはアンドレに進む道を選ばせ、「妻としてそれに従う」発言をします。
ここは「常に自分の信じた道を行く」原作のオスカルとは乖離しており、たまなぎ個人としても、もう少し原作に寄った描き方をしてほしかったと思うところです。
令和劇場版のオスカル&アンドレ
令和劇場版の二人の関係は、アニメ版に比べればかなり原作よりになっています。
オスカルは自立した女性として非常に丁寧に描かれ、アンドレはひたすらオスカルに寄り添い、オスカルを支え続ける。
オスカルに初めて男性性を意識させたあの場面もカットされ、後半の毒入りワインエピソードと合体させられているので、アンドレの片思いに気づく時期も、原作よりもかなり遅くなっています。
令和劇場版のアンドレは、原作にも増して好青年。例のあの場面も、この時代コンプライアンス的にアウトだからカットせざるをえなかったのだと思いますが、結果的にアンドレの好青年度を増しています。
ひたすらに優しく、オスカルの全てを受け止め、寄り添い続ける「影」。
原作に描かれた、「オスカルの影」としての面を徹底的に描いた印象です。
その分、まぶしい光として、その行動・選択・信念が余すことなく描かれたオスカルに比べ、ややアンドレの個性は薄くなった印象もないとはいえません。これは、劇場版という時間が非常に制約された中での描き方であるので、一概に責めることはできないとは思いますが……。
昭和アニメ・令和劇場版・原作を比較して
昭和アニメ版は色々言われていますし、私もガチの原作ファンとしては看過できない描写もいくつかありますが(アンドレに選択をゆだねる場面意外にも)、あくまで原作をベースに二人を一人の男性・女性として描き出そうとしたんだな、ということは分かりますし、それがプラスに作用したところも多々あると思います。ただ、その分原作からの距離は令和劇場版より遠くなった印象です。
令和劇場版はその逆で、オスカルのキャラを原作に最大限寄せて描き、アンドレのキャラも「オスカルの影」に徹して描いた印象があります。二人の関係も、昭和アニメよりも原作に近くなっています。ただ、時間の制約もあり、アンドレ個人の描写は若干少なめ。アンドレの男性性も控えめに描かれた印象です。
この違いは、テレビアニメ・映画という、圧倒的な尺の違いに加えて、時代の影響もあったのかなとは思います。テレビアニメは昭和時代。徹底的に自立し、性に囚われない生き方をしたオスカルのようなキャラは前例のないものだったのかもしれません。「男装はしているがあくまで女性」というところに制作陣がこだわったのも、既存のテレビアニメのキャラから抜けられなかったのかも。あくまで想像ですが……。
性に囚われず、一人の人間として激動の時代を生き抜いたオスカル。彼女の魅力は、昭和に比べて性の制約が少なくなった現代だからこそ、再認識されるものなのかもしれません。
むしろ、時代がベルばらに追いついた? やはりベルばらは、時代を先取りした傑作だったのですね。
原作ファン・オスカルファン・女性の私としては、令和劇場版の方がより好みですが、男性の視点から見るとまた見方が変わるかもしれません。男性のベルばらガチファンがおられたら(いるのかそんな人……)、ぜひご意見を伺ってみたいです。
まとめ
昭和アニメ版は、アンドレオスカル共に、性的役割が強調されて描かれている。その分オスカルのキャラは原作と乖離しているが、アンドレは一人の自立した人間として描かれている。
令和劇場版は、昭和アニメ版と真逆で、オスカルのキャラは最大限原作に寄せられ、アンドレとの関係も原作に近い。尺の関係もあり、アンドレ自身の個性はやや薄めになっている。
昭和と令和のアニメ版の描き方の違いは、尺の関係に加えて、時代の影響もあるかもしれない。
最後までお読み下さり、ありがとうございました!