目次
はじめに
皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、チェリまほ記事が続きましたが、本日は久しぶりに歴史記事です。
本日は、古代のパワーストーン、翡翠について書きたいと思います。
以後、たまなぎの作品『神眠る地をオニはゆく』のうっすらネタバレを含みます。
今からお読みになる予定の方は、作品の後で記事をお読み下さった方が、記事・作品の両方をより楽しんで頂けると思います。
それでは参りましょう。
翡翠の産地・糸魚川
縄文時代から古墳時代まで、翡翠は生命の源や超自然的なパワーのある宝石として珍重されていました。
日本国内での翡翠の唯一の産出地が、新潟県の糸魚川地方です。(他にも翡翠が原石として存在する地域はありますが、利用されたのは糸魚川産の翡翠だけ)
翡翠は、日本最大の活断層・フォッサマグナが出来た時に熱や圧縮によって生まれたとされています(諸説あり)。この翡翠の原石があるのが新潟県糸魚川地方の姫川・青海川の上流です。ここの翡翠の原石が、雨や川の流れに削られて小さくなり、姫川に運ばれて新潟県の糸魚川地方ーー姫川や青海川の下流で採集されます。
姫川の河口近くの海岸で翡翠が見つかるのはこういうわけなのです。糸魚川市のヒスイ海岸は有名ですね。
よく勘違いされがちですが、糸魚川というのは翡翠を産出する川の名前ではありません。新潟県の日本海に面する地で、姫川の河口の位置する市です。
姫川の流れに運ばれてきた翡翠のかけらを海岸などで拾うことは一般人にも許可されています。素人にはなかなか本物の翡翠を見分けることは難しいそうですが、慣れてくるとだんだん見分けられるようになるらしいです。
なお、上流の翡翠の岩石は採取が禁じられていますのでご注意下さいね。
翡翠の歴史
翡翠文化は、縄文時代中期から新潟県の糸魚川地方から始まりました。始まりはは約7000年前と言われています。
弥生時代になると、翡翠を加工した管玉や勾玉が作られるようになり、威信財として珍重され、全国各地で取引されるようになりました。
最古の王墓である福岡県の吉武高木遺跡も、約2200年前のものですが、ここから3種の神器の一つとして糸魚川産の翡翠が見つかっています。
吉武高木遺跡についてはこちら↓
以後翡翠文化は全国に広がっていきますが、6世紀ごろ、突然姿を消します。何があったかは謎ですが、仏教伝来と関連があるのではないかと考える人もいるようです。(このことはまた後で考察します)
そのためもあって、翡翠は長く、国産のものは存在しないと思われてきました。
糸魚川の翡翠が再発見されたのは、何と20世紀になってからの1935年。その後、考古学的調査の結果、日本で利用されたすべての翡翠は新潟県の糸魚川産であることが明らかになりました。
2016年、日本鉱石科学会は翡翠を「国石」に選定しています。
翡翠に込められたパワー
この翡翠には不思議な力があると古代の人々は信じていました。その例をいくつかお見せしましょう。
万葉集に詠まれた翡翠
『万葉集』巻十三の3247に、次のような歌があります。
「沼名河之 底奈流玉 求而 得之玉可毛 拾而 得之玉可毛 安多良思吉 君之 老落惜毛」
(沼名河の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも あたらしき 君が 老ゆらく惜しも)
(現代語訳;沼名河の底にある玉。求めて手に入れたい玉。拾って手に入れたい玉なのだ。尊いあなたが老いてゆくのが切ないから)
この「沼名河」は、長く、「実際に存在しない河」と言われていましたが、現在は糸魚川地方の姫川のことだと分かっています。これについては、作家の松本清張氏が早くに指摘しており、後日考古学会がこれを認めるという面白いいきさつがあるのですが、これについてもまた後日詳しく述べます。
姫川の底の石といえば翡翠。愛しい人が老いてゆくのを嘆き、翡翠の力を欲していることからも、翡翠に若返りやよみがえりの力があったと信じられていたことが分かります。
若返りの変若水(おちみず)伝説
また、古代には、若返りの水として、様々な場所に「変若水(おちみず)」があると信じられていました。
この「変若」はなぜ「おち」と読むのでしょうか?
実は「変若水」には「越水」という表記もあるのです。
「越」は富山~新潟地方の古い国名です。つまり、この地方の水には若返りの霊力があると信じられていた。翡翠は上流の巨岩が雨や川の流れで削られ、川に運ばれたものです。つまり、越地方の水に長く浸かっていたため、古代の人々は翡翠に若返りの霊力が凝縮されたと考えたのではないか。考古学者の森浩一氏は、そのような推理をされています。
新潟に伝わる伝承
翡翠が若返りの力を持つという伝承は、他にもあります。
新潟の郷土史家・三田村優氏の『越後国府ものがたり』には、次のような一節があります。
翡翠は縄文中期から古墳時代まで生命の源とか超能力パワーのある宝石として珍重されてきた。
この翡翠をかざして「ひい、ふう、みい~この、とう、振るえ、振るえ、ゆらゆらと振るえば死者も生き返る」と呪文を唱えると病気は治り死者も生き返ったという。
ここには、翡翠が治癒とよみがえりの力を持つことが、はっきり記されていますね。
翡翠文化消滅の謎に迫ってみる
さて、前項で出てきた、「ひい、ふう、みい~この、とう、振るえ、振るえ、ゆらゆらと……」の言葉には聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。
そう、「ひふみ誦文」ですね。
物部氏に伝わる呪文です。物部氏は古くより、祭祀を司る名門豪族として天皇家を支えました。
しかし、仏教伝来後、仏教による国の統治を推し進める蘇我氏と激しく対立、物部本家は滅亡に追い込まれます。587年のことでした。(詳しくは↓)
ここから、たまなぎは最初に述べた、6世紀に翡翠文化が消滅した理由を想像してみました。(勝手な妄想です)
日本の翡翠文化が消滅したのは6世紀。翡翠を死者のよみがえりとして使う際、使われる呪文は物部氏のもの。
その物部氏が大きく力を失ったのは6世紀。これは偶然でしょうか?
物部氏はパワーストーンである翡翠を祭祀の上で重用していたのではないでしょうか。ところが、仏教が隆盛し、物部氏は政治的地位を失い、古代の伝統的な祭祀は凋落していった。その中で、翡翠も使われなくなっていったのかもしれません。
勝手な妄想です。特に証拠もなく、「可能性」でしかありませんが、こういう想像をするのは楽しいですね。
さいごに
以後、日本の翡翠文化のアウトラインと、翡翠が持つと信じられたパワーについて述べました。
翡翠のお話はまだまだ続きます。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!