作品解説&エピソード

『遠の朝廷にオニが舞う』の世界㉛古代日本と天然痘その1(by 珠下なぎ)

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

 

本日からは数回に分けて、作中のキーワードのひとつとなる、天然痘についてお話ししたいと思います。

 

作品の元になった、「武蔵寺縁起」には、天然痘=疱瘡の名は記されていません。

ただ、縁起文に記された症状から、この病気が天然痘であることは明らかです。

縁起文には、このように記されています。

 

「世間に大腫病が流行して大変な数の人々が死亡した。(中略)村によっては半数ほどが死亡することもあり人々はみな疫病の伝染を恐れて親戚さえもたずねることがなく、家を捨て山野に移り、仮住まいなどをしてその災いを避けようとするものが多い。瑠璃子もこの病にかかった、病状は日に日に重くなり、全身に瘡腫ができて血膿が流れ、強い臭気を放って近づきがたいほどであった」

 

縁起文に書かれている全身の瘡腫という症状、死亡率の高さ。そして人々が感染を恐れて人との接触を避けたという記述からは、縁起文に書かれた病が、非常に強い感染力を持っていたことが分かります。


疫病の流行を描いた場面。武蔵持縁起絵図(第三幅)の一部
「ちくしの散歩」(筑紫野市教育委員会発行より抜粋)

 

この三つから、筆者はこの病が天然痘であったことはほぼ間違いないと思っています。

 

天然痘は、非常に強い感染力を持ち、致死率は30%ほどと非常に高く、治癒した場合でも失明に至ったり、顔にあばたを残したりするため、長く恐れられていた病です。

発熱や頭痛から始まり、いったん解熱するものも、やがて全身に丘疹が生じ、それが膿んで再び高熱を生じます。それがかさぶたになって治癒に向かう場合もあるのですが、内臓に合併症を生じる場合もあり、最悪の場合は死に至ります。

 

18世紀にジェンナーによって種痘が発明されるまで、各地で定期的に流行し、そのたびに多数の犠牲者を出してきました。

 

ヨーロッパ・アフリカでは紀元前から流行があったことが確認されますが、日本では6世紀頃に初めての流行があったことが、日本書紀によって確認されています。

 

折しも敏達天皇が仏教の布教を勧めた時期と一致しており、日本の神をないがしろにした神罰だという見方が広がって、蘇我氏の影響力を低下させる一因ともなっています。

 

仏教の布教が勧められた、すなわち大陸との往来が盛んになった時期であり、日本での天然痘は、大陸から持ち込まれたものだという見方が一般的です。

 

次回は「遠の朝廷(みかど)にオニが舞う」に近い時代に日本で起きた、天然痘の流行についてお話ししたいと思います。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

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