皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、今回は霧島神宮レポートその②。
霧島神宮の本殿から左に曲がり、3分ほど歩くと、「山神社」があります。
こちらのご祭神は、大山津見神。
天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻である、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の父です。
瓊瓊杵尊の妻は、木花咲耶姫と呼ばれることが多いのですが、本名は別にあります。
ではなぜ、木花咲耶姫の名が人口に膾炙しているのでしょうか?
それでは参りましょう。
1.大山津見神を祀る、山神社
霧島神宮の本殿の前は大変な人でしたが、こちらへ向かう人はまばら。
霧島神宮もかなり標高の高い位置にあり、道は歩きやすく整えられてはいますが、山の中を歩いているな、という感じです。
間もなく、簡素な鳥居が見えてきました。
中へ向かうと、樹齢何百年か見当もつかない見事な巨木が立ち並んでいます。
空気はぴんとはりつめて清浄。国宝である社殿も見事ですが、私は贅を尽くした建物よりも、こういう原始的な信仰の残っている場所の方が好みです。
ペシャワールのモスクや、ヨーロッパの聖堂も似た空気で満たされていました。
祈りの念というものは、世界共通のものなのかもしれませんね。
小さな祠にお参りします。
境内の木には、何か小さいものがびっしりぶら下げられています。
「割り札」といい、願い事を書いて木につるし、半分に割って持ち帰るそうです。近くで見るとこんな感じ。
2.木花咲耶姫の本名は?
さて、この山神社は先にも述べたように、瓊瓊杵尊の舅に当たる大山津見神です。
よく知られている話はこうです。
「瓊瓊杵尊は葦原中国に降臨し、木花咲耶姫という美女と出会う。彼女は国津神である大山津見神の娘だった。大山津見神は木花咲耶姫と姉の磐長姫を瓊瓊杵尊に差し出すが、姉の磐長姫は容貌が醜かったので、瓊瓊杵尊は磐長姫を親の元に返してしまう。磐長姫は、瓊瓊杵尊のの子孫の命が磐のように長く強固になることを祈って贈られたものだったので、以後子孫の命は花のようにはかなく短いものになってしまった」
ところが、瓊瓊杵尊が木花咲耶姫に初めて会った時に、彼女は『古事記』では神阿多都比売、『日本書紀』では鹿阿津姫と名乗っていて、「木花咲耶姫」というのは別名となっています(「木花咲耶姫」については表記は多々ありますが、今回はこれで統一します)。
そもそも『日本書紀』の正文には、瓊瓊杵尊が磐長姫を拒絶する話は載っておらず、「一書(あるふみ)に曰く」と異説として掲載されているのです。
「木花咲耶姫」という名前は、瓊瓊杵尊が磐長姫を拒絶し、木花咲耶姫のみを受け入れたため、「子孫の命は花のようにはかなく散ってしまう」運命になった、ということの説明のためにつけられた異名とも言えるのです。
けれどこの話があまりに有名になったため、今でも「木花咲耶姫」の名が、瓊瓊杵尊の妻の名として人口に膾炙する結果になったのでしょう。
3.木花咲耶姫のその後
さてその後、木花咲耶姫は一夜にして妊娠。それで、瓊瓊杵尊はおなかの中の子が、自分の子ではないのではないかと疑います。
それで姫は、「天津神の子なら何があっても無事なはず」と産屋に火をつけて出産に臨み、無事に子を出産します。
姫が生んだ三人の子のうち一人が彦火火出見命=山幸彦。神武天皇の祖父となる人物です。
それにしても瓊瓊杵尊、不細工だからと磐長姫を返したり、妻の身ごもった子が別人の子だと疑ったり。
「疑いを晴らすために火の中で出産する!」なんて妻が言い出したら、普通謝って止めませんかね。木花咲耶姫が火の中で出産したということは、止めなかったんでしょうね。
木花咲耶姫も、こんな男のどこが良かったんだか(個人の感想です)。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!