『遠の朝廷にオニが舞う』 作品解説&エピソード

『遠の朝廷にオニが舞う』の世界㉓怨霊と疫神(by 珠下なぎ)

皆さん今日は、珠下なぎです。

 

古代のオニの重要なルーツとして、古代中国の疫神信仰から始まったこのブログ、前回やっと一周回って古代大宰府における疫神信仰と、作品との関連に辿り着きました。

 

ここで、古代中国で始まった疫神信仰が古代大宰府に伝わり、やがて中央にまで広がったことが分かったのですが、その後中央に広がった疫神信仰が、中央の文化にどんな影響を与えたか見てみることにしましょう。

 

このブログの7回目で、「祇園祭はもともと怨霊を鎮めるための祭だったが、その後疫病の流行が続いたため、牛頭天王を祀って今のような形になった」と書いていますね。

 

ここではさらっと流してしまいましたが、「もともとの怨霊を鎮めるための祭」というのは、863年に神泉苑で行われた、「御霊会」が最初です。

この時には無実を主張しながらも朝敵として葬られた早良親王を初めとして、6人の御霊が祀られました。

 

「遠の朝廷にオニが舞う」の時代よりはずいぶんと後ですね。

御霊会が行われるようになった背景には、宮廷で陰陽師が力を持つようになり、災害や疫病の流行を、占いや吉兆判断によって祟りに結びつける傾向が顕著になったためともいわれています。

 

ここで、古代におけるオニのルーツに、古代中国において「敗軍死将」が疫神となるという民間信仰があったことを思い出していただけないでしょうか?

 

陰陽道は古代中国で生まれた自然信仰を起源とし、日本で独自の発達を遂げました。

 

同じ古代中国に起源をもつ陰陽師たちが、疫病の流行を、勢力争いに敗れた貴族や皇族の祟りであると考えたことは自然なことかもしれませんね。

 

祇園祭は、その当初から、疫神を鎮めるという性格を持っていたのです。

 

一方、奈良時代、陰陽師が力を持つ以前は、日本において勢力争いに敗れた貴族の祟りを恐れたり、ことさらにその魂を慰撫しようという試みは行われませんでした。

 

けれどその中で、民間信仰のレベルでは、疫神信仰は途切れることなく続いていました。

「遠の朝廷にオニが舞う」の中で法蔵が唱えている疫神退散の呪文は、奈良時代の木簡から見つかったもので、この時代にも疫神を人々が恐れ、それを祓う儀式を行っていたことを物語っています。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

 

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