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【天智帝の神降ろし】筑紫神社②~土着の神が降ろされたいきさつ

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さてさて今回は前回の続きです。

山から降ろされた第3の神、筑紫神社に祀られた「筑紫の神」について。

この神が何者なのか、また、どういういきさつで山から降ろされたのか、考察させて頂こうと思います。

前回の記事はこちら↓

 

1.筑紫神社の縁起について

今までご紹介してきた、四王寺山から降ろされた2柱の神を祀った春日神社・王城神社と違い、筑紫神社にはオリジナルの縁起はありません。

「筑後国風土記」の記述をもとに、縁起が作られています。

 

「筑後国風土記」の記述を詳しく見て見ましょう。

もともと、筑後の国と筑前の国は一つの国だった。今でいう筑後と筑後の国境の山に険しく狭い山があって、行き来する人は鞍韉(したくら=馬具)をすり尽くしてしまった。そのため、鞍韉尽くしの坂と言われた。また、この国境の上に荒ぶる神がいて、通る人は半分は死んでしまい、それゆえに「命尽くし」の神と言われた。そこで、筑紫の君・肥の君が占って、筑紫の君らが祖神である甕依姫(みかよりひめ)を祝(はふり)として祀らせた。以後この道を行く人が害されることはなくなった。この神を、筑紫の神と言った。また、その坂で死んだ者を葬るために山の木を伐って棺桶を作ると、山の木を伐り尽くしてしまうまでになった。このためにこの国を「筑紫の国」と言った。後に筑後と筑前の国に分かれた。(「筑後国風土記逸文」より筆者訳)

「筑後国風土記」では、茶色の文字の三つの「尽くし」を「筑紫」の国の由来としています。

「筑紫」は本来は「ちくし」と読まれていましたが、この風土記のイメージが広がると、「つくし」と読まれるようになりました。

また、筑紫の神については、赤の文字に注目してみましょう。

筑前・筑後の国境にいた荒ぶる神を、筑紫の君と肥の君が、筑紫の君の祖神である甕依姫を祝(はふり=神に仕える神職)として祀ったところ、神が鎮まった。

筑紫の君は、「磐井の乱」で有名な筑紫の君一族で、現在の八女地方で勢力を誇った豪族です。

肥の君は熊本地方の豪族で、筑紫の君一族と婚姻関係にあったことが分かっています。『筑後国風土記』の記述からも両者の親密さが分かりますね。

そして、「筑紫の神」とは、大和王権が祀っていた神々とは全くルーツの異なる、地元の人々によって祀られていた神であることが分かります。

筑紫神社の案内板によると、この神はもともとは「城山の山頂に祀られていた」ということです。

以前も紹介した伊藤まさ子著『太宰府・宝満山・沖ノ島』によると、著者が筑紫野市の文化財課に電話で確認したところ、「城山」は現在の「基山」のことだという回答が返って来たそうです。

そこから伊藤氏は筑紫の神が降ろされたいきさつについて、一つの推論を導いています。

「筑紫神社の神は、四王寺山から降ろされた神々と同時期、同様の事情で天智帝によって降ろされたのではないか?」

この説について考えてみましょう。

 

2.筑紫の神は天智帝によって降ろされたのか?

伊藤氏が筑紫の神が天智帝によって降ろされたと考えるのには、根拠があります。

四王寺山は、白村江の戦い後に天智帝が防衛のために朝鮮式山城・大野城を築いた山です。

また、同時期に基山には基肄城が築かれたのです。

四王寺山から神が降ろされたのは、白村江の戦い後。つまり、大野城が築かれた時です。

同時に、基山には基肄城が築かれた。そして、筑紫神社が設けられたのは、『筑後国風土記』の記述からは奈良時代以前であることが分かっています。

ですから、基山に基肄城が築かれた時、筑紫の神も他の2柱の神と同様、天智帝によって山から降ろされたと推論できるのではないか、というのが伊藤氏の考えです。

確かに説得力のある考え方に思えます。

ではなぜ、この時天智帝は「山から神を降ろして祀り直す」というような手間をかけたのでしょうか?

次回の記事で考察したいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

(参考文献;伊藤まさ子『太宰府・宝満山・沖ノ島』)

 

 

 

 

 

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