ちいかわ映画『人魚の島のひみつ』二回目感想(ネタバレあり)

はじめに

皆さん今日は。たまなぎこと珠下(たまもと)なぎです。

初めての方は、初めまして。歴史ファンタジーを中心に物語を書いている、心療内科医の珠下(たまもと)なぎと申します。

可愛い絵柄に惹かれて、ミリしらなのにうっかり見に行ってしまったちいかわ映画『人魚の島のひみつ』。

結末が分かってからだとまた色々見返して見たくなって、行って来ました!二回目!

(入場特典のボンドロシール欲しかったのもあったけど……)

 

二回目見ての感想

振り返ってからこそ分かること

たまなぎはちいかわの世界を全く知らず、ましてやXで無料で読める原作も読まずに映画を見たので、2回目に見てから気づいたことが沢山ありました。

 

ヒトハとフタバについて

まず、たまなぎは人魚の肉を食べた犯人、ヒトハとフタバを1回目ではぎりぎりまでモブとしか認識していませんでした。

けれど、振り返ってみると、最初から出てきている。

船酔いしたちいかわのためにハチワレが「炭酸ありませんか?」と聞いて、「単3」と勘違いして、めちゃ怯えていたのもヒトハとフタバ。バンガローに案内してくれたのも、セイレーンに捕まったラッコ先生を探しに行ったちいかわたちに加わってくれたのもこの二人でした。

バンガローに案内してくれた時、UNOで遊んだ後、ハチワレが無邪気に「仲良しなんだね」と声をかけますが、これも壮大な伏線。二人はたった二人だけで「永遠」を生きることを決めたのですから、仲良しどころじゃない、運命共同体なのですから……

それから、物語の鍵を握る、ヒトハとフタバが人魚の肉を食べた回想シーン。

フタバが人魚の肉を食べさせられたことを知って、ヒトハも巻き添えにしようとしたのは何故か、初見では色々解釈が出来そうだなと思っていたのですが、よく見ると、フタバの将来の想像が背景に出てきています。

周りが死に絶えて一人になることに怯え、ヒトハも一緒なら寂しくないと、ヒトハにも食べさせたことがはっきりと分かりました。

 

 

その他、ちいかわの世界を知ってから見ると……

他にもモモンガと古本屋さんの仲の良さとか、お酒を飲むのに資格がいる世界だと知ったからこそ分かるセリフとか、ちいかわが一人になって島二郎のお店を見つけた時に、ハチワレとラーメンを食べたことを思い出すとか、ちいかわの世界を知ってから見ると、また見方が変わってきました。

 

セイレーンは鬼?神?

セイレーンの神的性格

たまなぎは前回の記事で、セイレーンは「日本の鬼伝説と類似性が見られる」と考察しました↓

映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』感想②(ネタバレあり)

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ところが、二回目を鑑賞すると、セイレーンは、鬼というより、祟り神の性格が強いのではないかと思いました。

セイレーンが好む、味の濃い御馳走を食べさせ、彼らを害することがなければ、セイレーンは島民たちには特に害をなすことはなく、豊穣をもたらしてくれました(不思議な歌声のおかげで、作物の実りが良かったと、島民が回想しています。

しかし、禁忌を犯した(島民が人魚を食べた)途端に、島民たちを攫って食べる=祟りをなす存在となります。

最初、セイレーンがやってきた場面の回想シーンですが、島民たちは御馳走を差し出しながらも、冷や汗をかき、怯えているように描かれています。

島民たちより圧倒的に体が大きく、力も強い。敵に回したら敵うわけがない。そういう存在への「畏れ」がはっきりと見えるのです。

 

圧倒的な力を持ち、捧げ物をすれば豊穣をもたらし、禁忌を犯せば祟る。

これはむしろ、「神」の特徴に近い。

 

セイレーンの鬼的性格

その一方で、前回挙げた点以外にも、神というより鬼に近い点もいくつかあります。

例えば、セイレーンは、最初は、島民以外の観光客=ちいかわのような存在には友好的でした。

初対面では「間違えちゃってごめんね」と謝り、水に落ちたちいかわたちを介抱さえしています。

ラッコ先生を助けに行ったときも、「犯人を連れて来てくれたの?」と喜び、「それなら返すね」とラッコ先生を返そうとさえします。ちいかわたちを敵視し始めたのは明らかに、モモンガが人魚を食べようとしたから。(ちなみにこの時、「犯人」が、横でめちゃ怯えてたことに気づいたのも二回目だったから)

一度怒らせたら見境なく害をなす「神」よりは明らかに話が通じます。これは神というよりより人に近い生き物に見えます。

また、「人食い」という側面は、鬼を連想させます。もちろん「贄」として人を求める神の伝説は各地にありますが、「物理的に食べる」ところが可視化されているのは鬼に近い。

鬼伝説として日本の中で最も有名な「酒呑童子」には、「酢に漬けられた人」が出てきます。

これは、映画の「味噌漬けにされた島民」と似ています。

 

たまなぎの結論。セイレーンは鬼と祟り神の両方を特徴を備えた、独特の存在。

 

ちなみに、最後のシーン、BGMがないところが怖かったです。

水音がして画面が暗転(終了)するところも暗示的。

 

島二郎について

「しまじろう」といえば、某教育系企業の、可愛い虎の男の子……を連想するところですが、今回のしまじろう=島二郎はちょっと違います。

ひっそりと島の端に暮らしており、最初は出てきません。

映画中盤、仲間を全てセイレーンにさらわれ、一人になって失意の底に沈むちいかわの元に現れた「郎」の看板。

昔ハチワレと食べた「郎」ラーメンを思い出し、いそいそと駆け寄るちいかわ。しかし植物に隠された看板をすべて見ると、「島二郎」。

カツカレーと貝汁のお店らしい。そこの主で、気絶したちいかわを助け、貝汁とカツカレーをふるまってくれる島二郎。

彼はちいかわや島民たちより圧倒的に体が大きく、形は普通の人間に近い。つまり、ちいかわや島民たちの仲間ではない。

しかし、気になったのは島二郎を見た時の、島民たちの態度。

セイレーンを見た時同様、おびえた様子を見せます。

 

店を開いているにも関わらず、島民たちが訪れている形跡はありません。「繁盛してないから……」を頭を搔きますが、それは、どういうことなのでしょう。店が誰にも知られていないのに、生活が成り立っているのも不思議。

自給自足なのかもしれませんが、俗世を超越したものをを感じます。

 

彼もまた、大きな体と、強い力を持つ。セイレーンと同じく「神的」な何かなのかもしれません。

「X」では、セイレーンが来たことで忘れられた、「土着の神」「古い神」ではないかという考察もなされていましたが、それも一理あるかもしれないと思いました。

 

顔のない島民たちの怖さ

最後に、「顔のない島民たち」について。

最初たまなぎは、島民たちに顔がないのは、「この物語が誰にでも起こり得る」という意図ではないかと思いました。

ところが、二回目を見ると、また違った感想を抱きました。

ヒトハとフタバ以外の島民には、個性がありません。(しかもヒトハとフタバでさえ、独立した人格だと印象付けられるのは後半になってから)

御馳走を作ってセイレーンをもてなし、なぜかセイレーンに害されるようになってからは右往左往して泣き、島外に助けを求め、自分たちでは何もできない弱い存在。

 

しかし、そんな弱い彼らも、セイレーンが島二郎の激辛スパイスの攻撃で抵抗不能に陥ると、豹変します。

手に手に武器を持ち、無言で無抵抗のセイレーンに詰め寄る島民たち。

この場面は、匿名の人々がそれを笠に着てネットを炎上させるような、また、革命時の熱狂する群衆のような、「顔がない」からこそ凶暴になれる残酷さと無責任さをまざまざと表しています。

「顔のない島民たち」には、「群集心理の恐ろしさ」が象徴されているようにも思いました。

 

ここまで書いて、たまなぎはちょっと考えました。

「セイレーンを追い払った後、島民たちはどうなったのだろうか?」

……。

ヒトハとフタバの運命は、公式が示したとおりですが、島民とセイレーンはあの後どうなったのだろうか。

色々考えていたら、ものすごくエグいことを思いついてしまいました。

書けば長くなるため、これは次の記事で取り上げたいと思います。

 

さいごに

映画ちいかわ『人魚の島のひみつ』は、回数を重ねて見てみると、また新しいことに気づいたり、考察が深まったりする映画です。

皆さんも是非劇場へ足をお運びください!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

  • B!