目次
はじめに
皆さん今日は、たまなぎこと珠下(たまもと)なぎです。
初めての方は初めまして。心療内科医でゆるく作家活動としております、珠下なぎと申します。
先日、『ベルサイユのばら』の中の病気について考察した記事をアップしましたら、数日でたまなぎブログの人気記事ベスト10にランクインするほどのアクセスと、様々な方からの反響を頂きました。ありがとうございます。(記事はこちら↓)
というわけで、本日は『ベルサイユのばら』の中の病気の解説のおまけ。
序盤で登場する、ルイ15世の命を奪った天然痘について解説します。
この記事を読むと、ベルばら三大悪女の一人、デュ・バリー夫人への見方が、ちょっとだけ変わるかもしれません。
天然痘とは
原因と症状・種痘以前の歴史
天然痘は、天然痘ウイルスを原因とする感染症です。
天然痘ウイルスは、非常に強い感染力を持ち、致死率は30%ほどと非常に高く、治癒した場合でも失明に至ったり、顔にあばたを残したりするため、長く恐れられていた病です。
発熱や頭痛から始まり、いったん解熱するものも、やがて全身に丘疹が生じ、それが膿んで再び高熱を生じます。それがかさぶたになって治癒に向かう場合もあるのですが、内臓に合併症を生じる場合もあり、最悪の場合は死に至ります。種痘が発明されるまでの18世紀までは、各地で定期的に流行し、多くの犠牲者を出しました。
予防法として、古くは紀元前1000年のインドで、天然痘患者の膿を健康者に摂取して免疫を付けるという方法(人痘法)が行われていました。この方法は18世紀にイギリスやアメリカに導入されましたが、天然痘に罹患する場合もあり、人痘法による致死率は2%程度とかなり高いものでした。
種痘の発明と天然痘の撲滅
人類と天然痘の長い戦いの歴史において、大きなターニングポイントとなったのが、ジェンナーによる種痘の発明でした。
18世紀のイギリスで、牛の病気である牛痘に罹患したものは、天然痘患者と接触しても感染しないか、感染しても軽症で済むことが発見されます。
ジェンナーはこれを元に元祖・天然痘ワクチンといえる種痘を確立します。
これが論文として公表されたのが1798年。その後種痘は全世界に広まり、改良が重ねられ、天然痘は全世界で激減。1980年にはWHOが天然痘撲滅宣言を出します。
ルイ15世が天然痘に罹患したのは、1774年。種痘が始まる、わずか四半世紀前。けれどこの時代のフランスには治療法はなく、ルイ15世は64歳の生涯を閉じるのです。
ルイ15世の最期とデュ・バリー夫人
デュ・バリー夫人の生涯
デュ・バリー夫人は、ベルばらでは三大悪女の一人として描かれています(あとの二人はポリニャック夫人、ジャンヌ・バロア)。
貧しい家庭からのし上がり、ルイ15世の愛人となった彼女は、オーストリアから嫁いできたばかりのマリー・アントワネットと激しく対立します。
このデュ・バリー夫人、ベルばらでは、色気を武器に国王を操って贅の限りを尽くしたり、アントワネットを敵視したり、ジャルジェ夫人を陥れるために毒入りワインで自分の小間使いを毒殺したりと相当な悪女に描かれています。
しかし、実際の彼女は、男性関係には奔放でしたが、そこまでの悪女というわけでもなかったようです。シャンパーニュの貧しい家庭に生まれた彼女は、母の再婚でパリに引っ越し、金融家の継父に可愛がられて教育を受けたそうです。その後お針子として働いていましたが、美貌を武器に様々な男性と関係を結び、デュ・バリー子爵の愛人となり、デュ・バリー子爵の弟と結婚して貴族の位を得ます。その後ルイ15世の愛人となり、アントワネットと対立しますが、ルイ15世が危篤に陥ると、追放同然に修道院に送られます。
その後、一時不遇な時期を過ごしますが、もともと朗らかで親しみやすく愛嬌があり、宮廷の貴族たちには好かれていたため、人脈を使ってパリに戻り、それなりに生活していたそうです。革命後はイギリスに亡命し、同じくフランスから亡命してきた貴族たちを援助。1793年、フランスに帰国した際に革命派に捕らえられ、ギロチンにかけられます。
これは調べるまで知らなかったので意外でした。
何となくイメージで、宮廷から追放された後修道院に幽閉されたまま、革命で処刑されたと思っていましたから。過去の恩を忘れず、亡命貴族を援助するなんていい人ではないですか。
アントワネットとの対立も、夫人を嫌っていたオールドミスの国王の娘たち(ルイ16世のおばたち)がアントワネットを焚きつけたこと、アントワネットが夫人の出自の賤しさや過去の男性関係を嫌っていたことが原因とされ、夫人自身がアントワネットを敵視したとか挑発したとかいう歴史的事実ははっきりしないようです。
病床のルイ15世に尽くしたデュ・バリー夫人
『ベルサイユのばら』でも、相当な悪女として描かれている夫人ですが、天然痘に罹ったルイ15世を献身的に看護している描写があります(もっとも、自分の立場がなくなるのを恐れて、という描き方にはなっていますが)。
Wikipediaでも「ルイ15世の看病に努めていた」と書かれており、病床の国王を彼女が看護していたことは間違いないようです。
当時、王太子夫妻は感染を避けるため、国王との面会を禁じられました。
つまり、天然痘の感染の恐ろしさは当時よく知られていたということです。
自分が感染する危険を顧みず、ルイ15世のそばに許される限り付き添ったデュ・バリー夫人。
「国王の愛人である立場を失いたくない」というだけで、ここまで献身的な行動がとれるものでしょうか。本当に利害関係だけで国王の愛人となっていたとしたら、感染の危険を冒したりせず、国王に見切りをつけて新たな愛人を探したのではないでしょうか。
旧アニメ版に描かれたデュ・バリー夫人とオスカルの別れ
原作では、デュ・バリー夫人は国王が危篤状態となった時、司教の命令で追放され、その後出てきません。
しかし、昭和に放映されたアニメ版では、オスカルが夫人を修道院に送る役割を買って出、二人はわずかな時間を共に過ごします。
国王の愛人という地位を失い、粗末な服に着替えさせられ、衛兵に鞭打たれそうにさえなっているデュ・バリー夫人を、オスカルは助け、護衛を願い出ます。
その時夫人は、「オスカル、あなたは明日のパンを心配することが、どんなにみじめで辛いことか、分からないでしょう」と話しかけます。
これはベルばら三大悪女の一人、ジャンヌにも言えるのですが、この時代、貧しい階級に生まれついたものが、真っ当な手段でのし上がることはほぼ不可能でした。
彼女たちがやったことを断罪することは簡単だが、決して飢えることのない立場に生まれついたものにその資格があるのか、ということを、アニメ版では鋭く問いかけているように思えました。
オスカルとアンドレのキャラや行動の改変など、旧アニメ版には原作を別の方向に捻じ曲げてしまったように思えるところも多々ありますが、旧アニメ版のこのシーンは、とても印象深く心に残るものでした。
余談ですが、ジャンヌの最期に関しても、原作では金に狂い、過失から夫を殺してしまい、自分も誤って転落死するという展開になっていますが、アニメではもはやこれまでとあきらめ、夫と心中、最後に夫と愛を確かめ合うという、哀しい中にも救いのある最期となっていました。
このあたりの改変はとてもよかったと思います。
おまけ(天然痘を扱った小説のご案内)
ちなみに、たまなぎの電子書籍でのデビュー作『遠の朝廷にオニが舞う』は、7世紀の北部九州を舞台としていますが、こちらも天然痘の流行を描いています。
白村江の戦から10年が経ち、国交を回復した新羅から久しぶりに訪れた公使が、天然痘の感染の発端となり……。
九州最古の仏蹟・武蔵寺に伝わる伝説をもとに描いた、万葉ロマンファンタジーです。
(第60回講談社児童文学新人賞と第26回児童文学ファンタジー大賞の最終候補作となった作品ですが、大人の方にも楽しんで頂いています。イメージ動画はこちら↓)
現在は紙書籍の販売も行っています。kindle unlimited対象作品です。気になった方はぜひこちらもご覧下さい!
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まとめ
・ルイ15世の死因となった天然痘は、ウイルスによる感染症で、18世紀末のジェンナーによる種痘の発明によって、20世紀に撲滅された。
・18世紀のフランスでは、天然痘の感染力の恐ろしさは知られていたが、予防法も治療もなかった。
・『ベルサイユのばら』では悪女として絵が描かれているルイ15世の愛人・デュ・バリー夫人だが、天然痘の恐ろしさを知りながらも許されるまで国王のそばに付き添うなど、献身的な行動も見られた。
・『ベルサイユのばら』旧アニメ版では、デュ・バリー夫人が追放されるシーンにオリジナリティを加え、より印象的なものにしている。
・たまなぎの電子書籍デビュー作、『遠の朝廷にオニが舞う』は、7世紀の北部九州での天然痘の流行を描いている。
ベルばらについては他にもいくつか記事を書いています。気になった方はご覧下さい!
最後までお読み下さり、ありがとうございました!