はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、あれもこれもご報告しようとして、すっかり長くなってしまったフォーラムの報告。
3回目の今日は、九州歴史資料館の学芸員・酒井芳司氏の報告「筑紫国造とヤマト王権」です。
筑紫国造とヤマト王権
この方もなかなかのお話上手で、文献学を中心に、磐井の乱後の戦後処理がどのようになされたか、筑紫の政治機構がどのように変わっていったなどをユーモアを交えながら分かり易くお話し下さいました。
屯倉の設置
磐井の乱後、磐井の息子・葛子が「粕屋の屯倉」を継体天皇に献上したため死罪をまぬかれた、というのは書紀にも書かれている有名なお話です。
その後、ヤマト王権は次々に屯倉を設置し、屯倉に物資を集め、九州支配の拠点とします。
しかし、それぞれの屯倉は、その後九州に進出した中央の豪族・物部氏や大伴氏の管理下に置かれていたため屯倉間の物資の輸送は円滑にいかず、ヤマト王権は那の津(博多湾近郊)に官家(みやけ)を新たに増設し、各屯倉の一部を統合します。
こうして那の津官家はヤマト王権の支配の拠点となり、後には朝鮮半島への軍事的介入の足掛かりともなっていくのです。それは『日本書紀』欽明天皇15年に筑紫国造鞍橋君、17年に筑紫舟師(ふないくさ)、筑紫火君などが朝鮮半島での戦争で活躍したことが書かれていることからもうかがえます。
磐井の乱後の九州の支配体制
磐井の乱後、磐井が有明首長たちをまとめていた九州北部の支配体制は崩れ去りました。
では、その後は筑紫の君一族は、九州の支配体制はどうなったのでしょう。
磐井の子である葛子は、その後粕屋の屯倉の管理を任され、初代の筑紫国造(くにのみやつこ)に任じられたと考えられているそうです。
大化の改新以前のヤマト王権では、各国に2~4の国造が置かれ、国造を通してヤマト王権は各地の物資や人的資源を支配・統括していました。
しかし、筑紫国に置かれた国造は一名だけ。これはやはり筑紫君の後裔が筑紫の支配において重要な人材だとヤマト王権が考えていたということではないか、というようなことが講演の中で語られていました。
けれど、だからといって実際に筑紫国造に自律的な権限があったわけではないと考えられているそうです。
実際の物資の輸送や人民の徴発などの決定の権限を持っていたのは、磐井の乱において功績があり、乱後に筑紫に進出してきた大伴氏・物部氏ら中央豪族で、筑紫国造はヤマト王権の意を受けた中央豪族の命に従って、物資や人的資源の管理をしていたに過ぎない、ということでした。
最後の筑紫の君・薩夜馬
筑紫の君は磐井が死に、息子の葛子がヤマト王権に服属したことで、筑紫国造として筑紫での勢力を維持しました。
しかし、それは同時に、朝鮮半島での戦争への動員を含め、人的・物的資源をヤマト王権に差し出さねばならないことを意味していました。
筑紫の君磐井が拒み、乱のきっかけとなった、ヤマト王権の戦争への協力は、磐井の乱の失敗によって、強制されることとなったのです。
筑紫の君一族は、その後国造として筑紫で生き延びますが、その名は7世紀を最後に歴史から消えます。
最後の筑紫君の名は、薩夜麻(薩夜馬)と言います。
彼は白村江の戦いに参加し、唐軍の捕虜になり、長安にいました。
ところが、664年に、唐が日本侵攻を企てているとのうわさを聞き、王権に知らせるために氷連老らと共に唐を脱出、671年にようやく帰国を果たします。
ちなみに、薩夜麻が唐を脱出できたのは、同じく兵士として徴発され、捕虜になっていた大伴部博麻が、奴隷に身を売り、薩夜麻らの帰国の費用を用立てたからでした。
その後大伴部博麻は持統帝の世、690年になってようやく帰郷を果たし、持統帝からねぎらいの言葉と共に沢山の褒美をもらうのですが、これはまた別のお話です。
大伴部博麻についてはこちら↓
ちなみに、この人は八女の上妻県――現在の八女市上陽町あたりの人ですが、この人の名前からは、この時代の八女に大伴氏が部民(豪族の領民)を持っていたことが分かりますね。
磐井の乱のきっかけとなった朝鮮半島での戦争。
筑紫君一族が終わりを迎えるきっかけとなったのが、同じく朝鮮半島への出兵であった白村江の戦というのは、たまなぎは何とも宿命的なものを感じました。
まとめ
・磐井の乱後、筑紫には屯倉が設置され、ヤマト王権の筑紫への支配の足掛かりと同時に朝鮮半島への拠点となった。
・筑紫君一族は磐井の死後、国造として地域での勢力を保ったが、その名は白村江の戦いで捕虜となった薩夜麻を最後に歴史から消えている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!