『大江山恋絵巻』 作品解説&エピソード

酒呑童子とは何者だったのか~正体は? 親は誰?

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。お久しぶりです。

本日からは『大江山恋絵巻~人の巻~』のキャラ紹介を兼ねて、物語に登場する人物にまつわる伝説をより掘り下げてご紹介したいと思います。

今回はこの物語の主役と言っても過言ではない、酒呑童子。

酒呑童子については以前こちらの記事でもおおまかにご紹介しましたが、今回は各地の伝承や生い立ちをふまえ、酒呑童子の正体に迫りたいと思います。

 

酒呑童子の生い立ち・父母について

酒呑童子の生い立ちについては様々な説があります。

その主なものを地域別にご紹介しましょう。

 

新潟県

新潟には、酒呑童子が幼少期を過ごしたという国上寺があり、そこに伝わる『大江山酒顛童子』絵巻に、酒呑童子の生い立ちが書かれています。

それによると、酒呑童子の父は桃園親王の家臣であり越後の城主・岩瀬俊綱。

酒呑童子は母親の胎内で三年過ごしたのちにようやく生まれ、子供の頃はずば抜けた美貌の持ち主であったが手の付けられない乱暴者だったため、両親がそれを懸念して国上寺へ稚児として出されます。

『江戸諸国百物語』によると、稚児となった後、多くの女性に思いを寄せられ恋文をもらいましたが、それを読みもしなかったため、思いを遂げられなかった女性の恨みで鬼になった、とされています。

また別の伝承では、鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5〜6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていた、というものも。

鍛冶屋の息子……というのは、暗示的ですね。鍛冶=製鉄民族というのは古代から鬼と呼ばれることがありました。

また、母の胎内に長期間いた、生まれながらにして髪と歯が生えそろっていた、というのは源義経の家臣・武蔵坊弁慶の伝説とも共通しています。

『前太平記』によればその後、6歳にして母親に捨てられ、各地を流浪して鬼への道を歩んでいったとされています。

いずれにしても、人の世に生きる場所を失った酒呑童子が、鬼となり、昔から鬼退治伝説で知られる大江山に生きる場所を求めた姿が浮かび上がってきませんか?

 

滋賀県

滋賀県には、また面白い違った伝説があります。

奈良絵本『酒典童子』によれば、酒典童子は、近江国須川(米原市)の長者の娘・玉姫御前と、伊吹山の伊吹大明神(八岐大蛇)との間に生まれたというのです。伊吹大明神の託宣によって、出産後、玉姫は伊吹山に上り、酒典童子は祖父である須川の長者の子として育てられたというのです。

八岐大蛇の子……これまた暗示的ですね。八岐大蛇は、素戔嗚に退治された出雲の大蛇ですが、これは産鉄民族を素戔嗚が従えたという解釈もなされています。八岐大蛇=産鉄民族=鬼の系譜

しかも、この物語は神と人間の結婚=神婚説話でもあり、非常に興味深いです。

さて、この後大きくなった酒呑童子は比叡山で修業をしますが、平安京の完成に伴う祝賀行事で鬼の面をつけて舞ったところ、それが顔から取れず、本物の鬼になってしまいます。祖父からは受け入れられず、伊吹山の母の導きで神通力を身に着け、最終的に大江山にたどりついた、というものです。

 

奈良県

奈良県の伝説では、白毫寺の稚児が、興味本位で行き倒れた死体から人肉を持ち帰り、後にそれが習慣化して人を襲って食べるようになった。不審に思った僧侶に正体を暴かれた稚児は追い出され、大江山に逃れて酒呑童子となった、ということになっているそうです。

 

各地の伝承から分かることのまとめ~酒吞童子の正体

いずれの話にも共通しているのは、「酒呑童子はもともと稚児だった」という話。これはおそらく事実だったのでしょう。理由は様々ですが、寺にいられなくなり、鬼になった、というのもおそらく事実だったのでしょう。

また、八岐大蛇の子、鍛冶屋の息子などの説は、いずれも酒呑童子が生まれながらにして鬼の系譜に連なっていたことを暗示しています。

最古の酒呑童子伝説である『大江山絵詞』には酒呑童子が美貌の持ち主であったことが記されていますが、これは越後の国上寺の伝説とも一致します。

酒呑童子が美貌の持ち主であったことも疑いないでしょうね(キッパリ)。

 

というのはさておき。「酒呑童子は古より鬼と呼ばれる人々の血を引く人間であり、元稚児だった。理由は様々だが、人の世に生きる場所を失くし、鬼となって大江山にたどりついた」。これは間違いないでしょう。

鬼の血を持つが、人の世に生きる場所を失くした人間。

これが酒呑童子の正体ではないでしょうか。

 

単純な好みで言えば、たまなぎ的には国上寺の伝説を推したいところです。

美貌が災いして人の世に生きる場所を失くし、鬼になるしかなかった悲劇の稚児……良き!

たまなぎがこれらの伝説からどんな酒呑童子像を描き出したのか、気になる方はぜひ『大江山恋絵巻~人の巻~』をご覧下さい!

珠下なぎ 小説作品のご案内 - たまなぎブログ by LTA出版事業部 (ltap.website)

 

 

酒呑童子は西洋人だった?

一方、「酒呑童子は西洋人だった」という説もあります。

酒呑童子が人の生き血を飲んでいた、というのは、西洋人の飲んでいたワインではないか。顔が赤く大柄というイメージも、酒呑童子が西洋人だったためではないか。

これはよく、ゲームやライトノベルなどにも使われる設定なので、定着したものかと思っていますが、由来は意外に新しいようです。

これは、今までにご紹介した伝説と違って比較的新しく、文献に記されたものは20世紀以降のもののようです。

しかしながら、大江山付近には、「酒呑童子はロシア人である」という話が大正から昭和にかけて語られていた、という話もあります。

もっとも、この話の記された高橋昌明『酒呑童子の誕生』(中公新書、1992年)には日露戦争におけるロシアへの敵愾心がこういった伝説を生んだのではないかという考察も付け加えられています。下のブログに非常に詳しく書かれていますので、興味のある方はご参照ください。

【妖怪メモ】鬼は日本に漂流してきた西洋人という俗説(1) - 猫は太陽の夢を見るか(新) (hatenablog.com)

 

日本での鬼の系譜は7世紀以前にさかのぼりますが、この古い時代にも、「外国人=鬼」という概念はありました。

『日本書紀』には欽明天皇の時代に佐渡に棲みついた粛慎人をオニと呼んだ、ということが書かれていますし、越後の国に伝わる伝説では、八千矛神=大国主の時代に夜星武という鬼がいたことが伝えられています。この夜星武も海を活動の場とする海賊で、粛慎人(女真族)だったと言われています。

日本に西洋人が頻繁に現れるようになった明治以後、この時と同じような心性で、日本人は西洋人を鬼ととらえたのかもしれません。

それが古くからの鬼である酒呑童子と結びつき、酒呑童子=西洋人とされていったのではないでしょうか。

 

まとめ

・酒呑童子伝説は各地にあるが、元稚児だったことは共通している

・異常な出生や鬼の系譜につながる血筋など、幼少時から他との違いがあった

・酒呑童子=西洋人説は広く知られているが、意外に新しく、明治以降に現れたものである

 

最後までお読み下さって、ありがとうございました!

 

 

 

© 2024 たまなぎブログ by LTA出版事業部