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見どころと謎が満載の筑前国一之宮・筥崎宮④醍醐天皇の時代と「敵国降伏」の謎

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます。

 

さて、今回は前回の記事を踏まえて、筥崎宮のご神宝である、醍醐天皇の御宸筆・「敵国降伏」の謎に迫ることに致しましょう。

前回の記事をお読みでない方はこちらへ↓

 

1.八幡大神の「敵」とは?

前回の記事で考察したように、八幡大神は異民族である隼人を積極的に弾圧しました。

また、その後も武門の神・後に源氏の神とされた八幡大神は、様々な場面で朝廷にまつろわぬ人々を鎮圧するために利用されているのです。

 

8世紀の終わりから9世紀に初めにかけて、アテルイを首長とした蝦夷は朝廷と長く戦いました。

その際、初代の征夷大将軍――蝦夷を討伐するための将軍となった坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀しました。

その後アテルイは処刑されますが、11世紀には陸奥の安倍氏が反乱を起こしており(前九年の役)、「敵国降伏」の御宸筆が下賜された921年ごろには、まだ東北には半独立の勢力が存続していたことが分かります。

前九年の役に深く関わった源頼義も、宇佐八幡宮の神を勧請し、鶴岡八幡宮を開いたことは前回の記事でも述べましたね。

 

醍醐天皇の時代は、遣唐使は菅原道真の進言によって廃止されており、外国との目立った武力衝突はありませんでした。

ご祭神である八幡大神の性格からも、八幡宮の歴史からも、醍醐天皇の「敵国降伏」の「敵国」が示すものは、外国ではなく、国内の反朝廷の勢力と考えられるのではないでしょうか。

 

八幡大神=応神天皇は朝廷側の神。怨霊神とは対をなすものです。筥崎宮の参道が見事にまっすぐで、間に池や川も挟まれていなかったのも、納得できます。

 

2.醍醐天皇の時代と「敵国」

では、今回は醍醐天皇の時代に起こったことから、「敵国降伏」を考えてみましょう。

 

醍醐天皇は、菅原道真を重用した宇多天皇の息子で、宇多天皇の跡を継いで天皇になります。

 

政治・文化両方においてリーダーシップを発揮し、後の時代にも高く評価されますが、道真をライバル視していた藤原時平の讒言を入れ、道真を大宰府に左遷してしまいます。

903年に道真が失意のうちに大宰府で亡くなると、藤原時平が909年4月に亡くなったり、落雷などの災害が相次ぎ、これが道真の怨霊による祟りだとする噂が広まりました。醍醐天皇は、923年に道真の左遷を撤回して右大臣に官位を復し、正二位を贈って名誉を回復します。

 

ちょうど「敵国降伏」の御宸筆が下賜された時期が、道真の怨霊が恐れられていた時期と一致するため、「敵」を菅原道真の怨霊であると考える方もおられるようです。

 

けれど、道真という個人に対して「敵国」というのはちょっと不自然な気がしますが、どうでしょうか?

 

3.「敵国降伏」と蒙古襲来

その後、蒙古襲来の際に、亀山上皇が「敵国降伏」の御宸筆を下賜されます。

現在筥崎宮に掲げられているのは、この亀山上皇の御宸筆の複製です。

この時の「敵国」は明確に蒙古を指しています。

 

こちらが前面に出てきてしまったため、そもそもの始まりだった醍醐天皇の「敵国降伏」に込められた意味は隠されてしまいました。

今回はその謎に迫ってみましたが、いかがでしたでしょうか?

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

 

 

 

 

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