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珠下なぎの歴史メモ㉖『鬼滅の刃』の「鬼」についてその6 吸血鬼と呼ばれた人々 

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

本日は前回予告したとおり、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとなった、15世紀に実在したワラキア公国の王・ヴラド3世についてご紹介したいと思います。

 

ワラキア公国は現在のルーマニアに当たります。ここはスラヴ系民族の居住地であり、もともとヴァンパイア伝説の豊富な土地でもありました。

ヨーロッパの中では東の辺境にあたるこの地は、しばしば騎馬民族や異教徒の侵入に脅かされていました。

15世紀初頭、ハンガリー王はイスラム教徒のトルコ軍と戦うため、ドラゴン騎士団を設立しました。この騎士団に参加したヴラド2世はその勇猛さからドラクル(=ドラゴン)の称号を与えられました。

そのため、ヴラド2世の息子であるヴラド3世は、「ドラキュラ(=ドラゴンの息子)」と呼ばれるようになったのです。

 

このヴラド3世の異名であるドラキュラが吸血鬼の名前とされたのは、ルーマニアがヴァンパイア伝説の豊富な地であったことに加え、ヴラド3世が非常に残酷で冷徹な治世を行ったことに由来しています。

ヴラド3世は別名ヴラド・ツェペシュ(ヴラド串刺し公)と呼ばれていました。

彼は残虐な王で、捕らえた敵や自分に逆らう貴族を生きたまま串刺しにして処刑したことから、大変恐れられていました。

当時ワラキア公国はイスラム教徒の侵入にさらされると同時に有力貴族が力を持って王の権力は軽んじられ、内政も安定しているとはいいがたい状態にありました。

有力貴族を食事に招き、誘導尋問を行って、彼に絶対の忠誠を示さなかった貴族を一網打尽に串刺しで処刑したとか、残った貴族も家族ともども鉱山での強制労働に従事させたとか、残虐な逸話には事欠きません。

(前半の話は、下弦の鬼を処刑した時の鬼舞辻無残にちょっと通じるものがあるかも?)

 

敵からの侵入と内部の反乱勢力に脅かされ、不安定な王国をまとめる必要にあったのでしょうが、敵のみならず国内の反対勢力にも容赦ない残虐な刑罰で臨んだ彼の姿が、後世の作家・ストーカーから見て血に飢えたヴァンパイアに重なったのも不思議はありません。

 

もっとも、彼の極悪非道な所業は、彼とライバル関係にあったハンガリー王が意図的に広めたプロバガンダとも言われ、全てが真実でないとも言われています。

また、彼は恐れられる一方で、敵の侵略を防いだ勇猛な王として、国民から英雄視された側面も確かにあったということです。

 

ちなみにドラキュラ城のモデルと言われるブラン城は、ヴラド3世の祖父であるヴラド1世が実際に居住していた城で、今は観光地として有名になっています。

 

ヴラド3世とよく並んで紹介される人物に、16世紀のハンガリーの貴族、バートリ・エルジェーベド(エリザベート・バートリ)がいます。

彼女は血の伯爵夫人と呼ばれ、600人以上の年若い少女を極めて残虐な方法で殺したとされています。

(ちょっとここには書けないような話が沢山出てきますので、興味のある方は自分でお調べください。トラウマになっても責任は持ちませんが)

18世紀の彼女についての文書では、彼女は若い娘の生き血に体を浸すことで、自分の美貌と若さが永遠に保たれると信じていた、と書かれています。

これも、吸血鬼のイメージと重なり、彼女をモチーフにした漫画や文学作品も多数存在します。

(かの有名な「ベルサイユのばら」の外伝でも、「黒衣の伯爵夫人」という名の、彼女をモチーフにした作品があります)

ただ、当時の裁判記録では、彼女の犯罪行為について言及されているのは残虐な殺人や拷問についてのみで、犠牲者の血を浴びていたという事実は残されていないので、信ぴょう性は明らかではないそうです。

彼女に吸血鬼のイメージを重ねた後世の人間が、付け加えた可能性も否定できません。

現在では、きわめて残虐なサディズムを持ち合わせた犯罪者、と考えられています。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

 

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