皆さんこんにちは、珠下なぎです。
今回は前回の続きです。
日本にいた、百済復興運動の旗印として格好の人物とは誰でしょう?
それは、扶余豊璋(ふよほうしょう、生没年不詳)。百済最後の王となった、義慈王(ぎじおう)の王子です。
豊璋は日本書紀によれば631年に日本にやってきます。
これは日本と百済の関係を担保する、いわば人質のような意味合いだったようですが、貴族の太安万侶の一族の娘をめあわせたり、孝徳天皇の時代の国事に参加したりと、待遇は悪くはなかったようです。
660年に百済は滅び、王族と主だった家臣は殺されたり、唐の長安に連行されたりします。
この時、鬼室福信を中心に百済の復興運動を行っていた人々が倭国に救援を求めたことは、既にお話ししましたね。
当時の天皇は重祚して二度目の帝位についた斉明天皇でしたが、実権は息子である中大兄皇子(のちの天智天皇)が握っていました。
天智天皇は国を挙げて百済を救援することを決定、662年、蝦夷追討で名を挙げた阿倍比羅夫ら名だたる将軍に率いられた兵5000をつけ、豊璋を送り出します。
豊璋は新たな百済王として迎え入れられますが、次第に百済軍の実権を握っていた鬼室福信との間に亀裂を生じるようになり、663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害してしまいます。
これによって百済軍は著しく弱体化、唐と新羅の侵攻を許すことになります。
やがて救援にかけつけた倭国の援軍と唐・新羅の連合軍が、8月27日、白村江で激突。
世にいう白村江の戦いです。
白村江の戦いの舞台とされている(※河口付近)白馬江(錦江)
引用:扶余郡 紹介ビデオ(下部動画)
白村江で倭国・百済の連合軍は大敗、倭国は兵を引き、百済復興運動は潰えるのです。
これだけ見ると、豊璋はただのわがままで世間知らずのお坊ちゃまのように見えますが、もう少し細かく見てみましょう。
豊璋は倭国での生活が30年に及んでおり、実は百済の復興にはあまり積極的でなかったという見方もあります。
自分を倭国に人質に出した祖国のためにわざわざ危険を冒したくもなかったのかもしれませんね。
それからもう一つの説も。
649年、百済には政変が起こり、百済王子・翹岐(ぎょうき)とその一族は、異母兄にその地位を追われます。
この翹岐と豊璋を同一人物とする説もあります。
もしそうだったのなら、一族ごと自分を追い出した祖国のために、積極的に働く気になれなかったのもうなずけます。
鬼室福信を殺害したのも、追放されたときからの確執があったのかもしれません。
では、倭国の外交戦略は百済に全面的に肩入れしたものであり、戦略として失敗したのでしょうか?
実は必ずしもそうとはいえないのです。
続きはまた次回、お話ししたいと思います。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました!