――茜
信濃の夜は、骨に沁みるほど静かだ。
大江山の夜と違い、風は言葉を運ばず、木々も笑わない。
それでも私は、何度もこの山を訪れた。
紅葉さまが、ここにいると知っているから。
姿は見えない。
気配だけが、岩と霧の向こうに、確かにある。
「……紅葉さま」
返事はない。
分かっている。
紅葉さまが、応えない理由を。
酒呑童子さまが討たれたあの夜。
朝廷の武士・源頼光たちが大江山へ踏み込む、その隙を生んだのが、自分だと――紅葉さまは、そう思い込んでいる。
あの方は、誰よりも誇り高い。
だからこそ、自分を赦せない。
大江山には、茨木童子さまがいる。
あの方が、狂おしいほどの思いを抱いた茨木童子さまが。
酒呑童子さまの恋人であった茨木童子さま。
その死に、紅葉さまは自分の想いまで、罪として背負っている。
「戻ってきてください」
届かぬと知りながら、わたしは声を投げる。
「また、琴の音を聞かせて下さい。また、沢山お話をしましょう。あなたは、わたしたちの仲間です。大江山で全てを分かち合った、大切な仲間なんです……」
霧が、すべてを呑み込む。
――紅葉
ええ、聞こえていますわ。
茜さまの声は、夜よりも澄んでおられる。あの方の無垢なお心そのままに。
でも、応えることはできません。
今更わたくしが、どの顔で大江山に戻れるというのでしょう。
あの日、わたくしが気まぐれに山に入ったりしなければ。
いえ、それよりずっと前、わたくしが茨木童子さまに想いを抱いたりしなければ。
酒呑童子さまは死なずに済んだのではないでしょうか。今でも大江山で、愛しい茨木童子さまと一緒に、笑っておられたのではないでしょうか。
――茨木童子さま。
その名を、心の中で呼ぶたび、胸が裂けるように痛みます。
あの方が愛したのは、酒呑童子さま。
それを分かっていながら、私は……。
下らぬ誇りが、わたくしを縛り、
後悔が、足を止めるのです。
だからわたくしは、ここにいるのです。
誰にも会わず、誰の声にも応えず、
ただ、失ったものを抱いたまま。
――茜
霧の向こうに、確かに“拒絶”はない。
あるのは、深すぎる沈黙だけ。
だからわたしは、また来る。
顔を合わせぬままでもいい。
言葉が返らずともいい。
仲間だから。
同じ昼を、夜を生きた、鬼だから。
いつかきっと、
紅葉さまの美しい琴の音が、再び大江山の夜を満たす日が来ると。
その日まで、私は何度でも、この山を訪れよう。
鬼となった私たちは、
それほどに――しぶとく、そして、想い深いのだから。
