月が昇るたび、あの夜の痛みは骨の奥で疼く。
けれどこの夜は、いつもと少し違っていた。
――笛の音が聞こえる。
風のいたずらとも、記憶の残響とも違う。
確かに、鬼が城の奥から響いてくる音色だった。
その調べは、懐かしい。
けれど、どこかぎこちなく、震えていた。
まるで、迷いの指先が奏でるような音。
「……まさか」
胸が締めつけられるように痛む。
失われたはずの希望が、残酷なほど鮮明に蘇る。そんなはずはない、そんなはずはない。でも、この笛の音は確かに……。
足が勝手に動き、わたしは闇の廊下を進んだ。
かつてここにあった鬼が城の奥は、笑い声と灯火に満ちていた。
今は、静寂と影だけが支配している。
笛の音は、近づくほどにたどたどしくなる。
まるで泣きながら吹いているような、そんな音色。でも、確かにこの笛の音は……。
戸の前にかけよった時、音が途切れた。
開け放たれた座敷の奥、月明かりが差す場所に座っていたのは……茨木童子さまだった。
振り返った茨木童子さまの手に握られていたのは……あの笛だった。夜毎にお二人の寝室から流れて来た、あの甘い調べの流れ出す源。
ああ……。そういうことだったのか。膝からみるみるうちに力が抜けていく。
「……茜か」
茨木童子さまのその声は、茨木童子さまのものとは思えぬほど、弱々しかった。酒呑童子さまの亡くなった後、普段は今まで以上に厳しく、皆を叱咤して鬼が城再建のために力を尽くして来られた茨木童子さま。それがこんな弱々しい声を出すなんて……いや、それも無理はない。途方もない時を共にしてきた、半身を失ったのだから。
「失礼いたしました。笛が……あの方の音色に似て聞こえたので」
わたしがそう言うと、茨木童子さまは目を伏せ、少しだけ笑った。
「似ておらぬ。……いや、似せられぬのだ」
手の中の笛を見つめながら、茨木童子さまは静かに語り始めた。
「この笛は、もともと私のものだったのだ」
意外だった。あれほど酒呑童子さまがどこにでも携えておられた笛。もとは茨木童子さまのものだったとは。
「鬼になる前、神社で神楽を奏でる役を命じられてな。……だが私は、不器用でどうしても上手く吹けなかった」
茨木童子さまは苦く笑い、笛を白い指でなぞった。
「休暇に入る日だというのに、これを持たされて、実家に戻った。練習して来いとな。そして、色々あった」
茨木童子さまは、痛みをこらえるように一瞬目を閉じた。そして、目を閉じたまま、しぼり出すようにこう言った。
「その日――私は鬼になったのだ」
言葉の終わりが、わずかに震えた。
続く沈黙は重く、わたしは息すら忘れた。酒呑童子さまが鬼になった理由は、昔聞いたことがあった。茨木童子さまも似たような理由だと。しかし、茨木童子さまの口から、それを聞いたことはなかった。――しかし、茨木童子さまは、それ以上、詳しく語ることはなかった。
「だがな」
茨木童子さまはふっと微笑む。
それは哀しみを含みつつ、どこか誇らしげだった。
「鬼になったおかげで、酒呑童子さまに出会えた。この笛も……あの御方の手にかかれば、おまえも知るとおりの妙なる調べとなった」
「……はい」
知っている。わたしが初めて酒呑童子さまにお会いした時、わたしの心をそっと慰めてくれたのはこの笛だった。そして、お二人が共に過ごしておられる夜、そのひと時を彩るように、限りなく甘く柔らかな調べを生み出していたのも……。お二人が恋仲だと知った後、その甘い音色に触れた時の胸の痛みが、また蘇った。
「だが私は、どうにもこうにも才能がない。こうして吹いてみても……ただ笛が泣くだけだ」
笛が泣く、か。茨木童子さまがそんな言い方をなさるとは思わなかった。しかしその自嘲気味の言い方に、わたしの胸がまた少し痛んだ。
そして、茨木童子さまは笛をわたしに差し出したのだった。
「……おまえも、やってみるか? 」
わたしは息を呑んだ。
酒呑童子さまの奏でた笛。
茨木童子さまの想いがこもる笛。
二人の愛と涙の記憶が宿るもの。
触れてよいのか。
触れてしまえば、何かを壊してしまう気がした。
けれど――触れたかった。あの方の唇に触れた、その笛に。甘く昏い熱情が、私の腹の底から湧き上がる。
それを後押しするように、茨木童子さまの声が響いた。
「遠慮はいらぬ。そなたも貴族の娘だろう。私などよりは心得があろう。もしあの方の調べに似たものをもう一度聴けるならば、私は……」
かすかなためらいを含んだ声。茨木童子さまの気持ちは痛いほど分かる。しかし、その言葉は、わたしの衝動に火をつけた。わたしは手を伸ばして笛を掴み、唇へと運んだ。あの方の唇に触れた笛だ。息を大きく吸い、吹き込んで……。
――音が出ない。
「ん……」
もう一度。
――ピィッ……ビッ……。
わたしは笛を見つめ、茨木童子さまを見た。茨木童子さまの比ではない。下手どころか、笛の音にさえなっていない。拙い、ウグイスの初音よりもひどい。
茨木童子さまは顔をそむけているが、その肩はかすかにふるえていた。
そうか、忘れていた、わたしは、そもそも音楽の才というものが全くなかったのだ。笛も、琴も、琵琶も。それも、わたしが貴族社会に生きづらさを感じていた大きな理由の一つ。大江山に来るきっかけを作った様々な理由の一つだったのに。
「あまりに昔のことで忘れておりました――わたしには、音楽の才はなかったのです」
笑い声に、涙がにじんだ。
「そのようだな――私よりひどい」
わたしたちは顔を見合わせ――二人同時に吹き出した。
こんなに笑ったのは、いつ以来だろう。
笑ううち、酒吞童子さまではない、ある方の面影が胸の底によみがえった。
「……もし、紅葉さまがいらしたなら」
茨木童子さまの笑い声が止まる。
「あの方なら、酒呑童子さまにも劣らぬ笛の音を奏でてくださったでしょうに」
紅葉さま――音楽に愛された姫。
美しく、気高く、そして叶わぬ恋を胸に秘めたまま去った仲間。
失くしたものの名を口にするたび、胸は軋む。
茨木童子さまは静かに目を閉じた。
「……あやつは強い。いつか戻ってくるだろう」
「……はい。きっと」
笛を膝に置き、二人で夜を見つめた。
月は変わらず白く、美しく、そして冷たい。
けれど――この夜は少しだけ、温かかった。
いつか紅葉さまが戻り、笑い声が満ちる夜が来ることを願って。
そして、失われた音色の続きを、誰かが奏でられる日を信じながら。
