『月光を逃れて』(『大江山恋絵巻』ショートストーリー②)

月の光が、肌と心に突き刺さる。藍色の空に浮かぶ、白く大きな月から降り注ぐ、冷たく冴え冴えとした月光が。

わたしはそれから身を護るように、大袿を頭から被り、鬼が城を飛び立った。

月光から逃れられる場所……そして、失ってしまった、大切なあの方の気配が残る、あの場所へ。

 

空を飛ぶと、鬼の岩屋へは瞬く間に着く。人であった頃、灯火を消さぬように必死になりながら、道をかきわけ進んだのが噓のようだ。

酒呑童子さまや山の獣たちと焚火を囲んだ広間を抜け、ゆるやかな下り坂を降りる。背中に当たっていた凶暴な月の光の気配が消えうせると、わたしはほっと息をついた。

代わって前方に、ほんのりと柔らかく温かな、ヒカリゴケの灯りが現れた。この先は鬼の岩屋の最深部……わたしたち鬼に、長寿と不老をもたらす温泉がある。

酒呑童子さまが、あの時まだ人であったわたしに、この場所を教えてくれたのは、ひょっとしてこの場所がわたしにとって必要になる日が来ることを、どこかで予感しておられたのではないかと、今にして思う。……わたしが鬼になる日が来ることを。

 

かすかに水音がする。わたしたち、鬼の命の泉が湧きだす音が……いや違う。かすかだが、何かが水面を乱す音、水を跳ね返す音。

先客がいるのだ。

わたしは息をひそめ、足音を殺し、用心深く進んだ。もし、わたしの予想どおりなら、わたしは引き返した方がいいかもしれない。

「茜か」

低くなめらかな、よく通る声が岩屋に響いた。

「茨木童子さま……」

やはり。

おそらく、わたしと同じ理由でここに来られたであろう、茨木童子さま。だったとしたら、わたしはここにはおらぬ方がよいだろう。

「失礼致しました。すぐに出ていきますから」

わたしはそっときびすを返した。岩屋の外に出るのは辛い。いくら木々が生い茂っているとはいえ、あの凶暴な月光に身をさらすのは……。でも、茨木童子さまの邪魔をしたくはない。この場所はきっと、

「……待て、茜。」

その声に、わたしの足が止まった。

背に感じる茨木童子さまの気配もその声も、いつになく弱く、揺らいでいたからだ。静かな水音と、洞の奥から立ちのぼる湯気が、何かを恐れるように頬に触れていく。

「……はい。あの夜を、思い出してしまいますから。」

答えながらも、わたしはあえて振り返らなかった。
振り返ってしまったら、茨木童子さまの声の向こうに立ちのぼる、酒呑童子さまの幻を見てしまう。
焚火の明かりの中で笑う面影が、胸の奥を掻きむしる。

「この泉も、あの方の気配が残っておる。おまえも、それに触れに来たのだろう」

ああ、やはり見抜かれていた。当たり前だ。大江山に来てからほんの数か月の短い間、酒呑童子さまに惹かれていたわたしの胸中など。わたしなどとは比べ物にならぬほど長い時間を、酒呑童子さまと想いを通わせ、共に過ごした茨木童子さまには。

だが、茨木童子さまの声に責める響きはなく、ただ、同じ痛みが潜んでいた。

「……わたしには、もう気配しか残っておりません。
あの方の笑い声も、温もりも、みな、月の光にさらわれてしまいました。」

そう言ったきり、わたしたちは沈黙した。
水音と、泉を包む湯気の息づかいだけが、静かに岩屋を満たす。

やがて、茨木童子さまがゆるやかに身をかがめ、湯のそばに置かれた黒漆の瓢箪を手に取った。
蓋を外すと、かすかな香が漂う。
それは――懐かしい、あの方の好んだ酒の匂いだった。

「……この香、まだ残っておるとはな。」

低く呟くと、茨木童子さまは湯の縁に二つの杯を置いた。
ひとつをわたしの前へ滑らせ、もうひとつを自らの手に取る。

言葉はなかった。
ただ、湯気の向こうで、金の瞳がわずかに揺れた。

わたしは杯を受け取り、唇を濡らし……一瞬むせ込んだ。冷たく、癖のある味だ。
しかし、不思議と胸の奥が温かくなる。あの方の温もりが蘇る。
喉を通ると、あの方の笑い声が耳元に蘇る。

気が付くと、茨木童子さまがこちらを見つめながら、微かな笑みを浮かべていた。柔らかな笑み。

「まったく、あの方は……こんな酒を、よくも好んだものだ。」

「ええ……。あの方らしいお味です。」

二人で小さく笑った。
それきり、また沈黙。

泉の水面がゆるやかに揺れる。
そのゆらめきの中に、あの方の影が、ひととき戻ってきた気がした。

わたしは杯をそっと泉に傾けた。
酒の雫が水に落ち、淡い光を放って消える。

――どうか、この香りが、あなたに届きますように。(終)