『神眠(ねむ)る地をオニはゆく』上巻目次
主な登場人物 3
関連年表 4
天皇家・宗像(むなかた)氏略系図 5
序章 瑠璃子(るりこ)の縁談6
第一章 神の一族 24
第二章 人と、人ならぬもの 43
第三章 瑠璃子、宗像へ 76
第四章 神々の怒り 107
第五章 筑紫(ちくし)の異変 139
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主な登場人物
瑠璃子(るりこ)姫 …… 九州筑紫(ちくし)地方の豪族(ごうぞく)・藤原(ふじわらの)虎(とら)麿(まろ)のひとり娘(むすめ)。
鈴丸(すずまる) ………… 瑠璃子姫の幼なじみで従者。オニと呼ばれる鉄の民の血を引く。
海人(うみひと) ………… 九州地方の有力豪族・宗像(むなかたの)の君徳善(とくぜん)の孫。
藤原虎麿(ふじわらのとらまろ) …… 九州筑紫地方の豪族。瑠璃子姫の父。
法蔵(ほうぞう) ………… 武蔵寺(むさしでら)の僧。瑠璃子姫と鈴丸の師。百済(くだら)人。
蓮行(れんぎょう) ………… 武蔵寺の若い僧。法蔵の弟子。
栗隈王(くりくまのおおきみ) …… 筑紫(ちくし)大宰(だざい)。大宰府(だざいふ)の長官であり皇族。
巌(いわお) …………… 大宰府の鉄(てつ)工房(こうぼう)で働く、鉄の民の長。
関連年表
五二七~八年 筑紫の君磐井(いわい)が継体(けいたい)天皇に対し反乱を起こし、物部麁鹿火(もののべのあらかい)らによって鎮圧される(磐井の乱)
五三九年 欽明(きんめい)天皇即位。このころから、仏教を重んじる蘇我(そが)氏と、日本古来の神々を重んじる物部氏との争いが激しくなる
五八七年 蘇我氏が物部本家をほろぼす
六四五年 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らが蘇我氏をほろぼす
六六〇年 百済(くだら)滅亡
六六一年 斉明(さいめい)天皇・中大兄皇子率いる百済救援軍が九州に到着、同年斉明天皇病死
六六三年 白村江(はくそんこう)の戦い、百済・倭国(わこく)の連合軍が唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍に敗れる
六六四~五年 筑紫の国に水城(みずき)・大野城(おおのじょう)・基肄城(きいじょう)が築かれる
六六八年 中大兄皇子即位、天智(てんじ)天皇となる
六七二年 天智天皇崩御、次の皇位をめぐって天智天皇の息子・大友皇子(おおとものおうじ)と弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が争う(壬申(じんしん)の乱)
六七三年 大海人皇子が天武(てんむ)天皇として即位
天皇家・宗像氏略系図
序章 瑠璃子の縁談
「いやです、いやです!」
「瑠璃子、いい加減にせぬか!」
口論の末に、とうとう声を荒らげた父・藤原虎麿に、瑠璃子はきっとまなじりをつり上げ、大声でどなり返した。
「わたしは絶対にいやだと申し上げたでしょう!」
天武三(六七四)年、正月。
昨年、大宰府を訪問した新羅使の従者から広がった疫病は、筑紫で猛威をふるった。
この地方を治める虎麿はもとより、今は筑紫に身を寄せている百済人の僧・法蔵や瑠璃子らの働きによって、病はようやく収まった。病が収まるのと引きかえに、現世(うつしよ)から永遠に姿を消したと思われていた、瑠璃子の幼なじみ・鈴丸も、色々あった末、瑠璃子のそばにもどってきた。
突然もどってきた鈴丸に、父の虎麿も母の橘郎女(たちばなのいらつめ)も、法蔵も館の人々もおどろいたが、鈴丸は以前と同じ生活を送ることになった。
「許されるならばもう一度、姫にお仕えさせて下さいませ」
虎麿は、筑紫をおびやかした疫病を収めるのに、鈴丸が少なからぬ役割を果たしたことを、法蔵からも瑠璃子からもいやというほど聞かされていた。瑠璃子から見ても、父が鈴丸の願いを許さざるを得ないことは明らかだったが、果たしてそのとおりになった。
鈴丸がもどり、以前と変わらない生活が始まったかに見えた。
ただ一つ、瑠璃子と鈴丸の心が、単なる幼なじみ・従者と主人という枠を超えて、分かちがたく結ばれてしまったということを除いては……。
けれど、年の暮れのあわただしさに、その問題はひとまず棚上げにされた。
加えて、年の終わりに、虎麿の領地は例年にない大雪に見舞われた。
虎麿の屋敷や大宰府政庁は無事だったが、古くなっていたり、造りのもろかったりする農民の家はつぶれたりこわれたりしたものも多く、虎麿は家を修理する資材を配ったり、家の修理に人手を出したりと忙しく働き、鈴丸も毎日飛び回る日々が続いた。
何とか年を無事に越せるめどがたつと、今度は筑紫大宰・栗隈王のもとで行われる、新年の行事の準備のために、虎麿も家人(けにん)たちも、そして瑠璃子たちも、休むひまもなかった。
そして、年が明けると、色とりどりのはなやかな正装に身を包んだ男女がひっきりなしに出入りし、大宰府は常ならぬ喧噪に包まれた。唐(とう)や新羅といった、異国からの使節を迎えた時ほどではないが、客人たちの食事の宿泊の世話から行事の段取りなど、大宰府周辺は連日上を下への大さわぎとなった。
かたくるしい儀式が数日かけてようやく終わると、西海道(さいかいどう)(九州)各地からはるばる大宰府までやって来た各地の豪族たちは、大半が帰国の途についた。
虎麿の屋敷の者たちも大方もどり、いつもの生活がもどってきたかに見えた、夕方のことだった。
瑠璃子が両親に呼び出されたのは。
いわく……。
宗像(むなかた)の君の三男が、一人大宰府に残っている。ひと月ほど大宰府に滞在する予定なので、案内役を務めるように。
宗像の君の三男。それは鈴丸が姿を消してしばらく経ったころ、母から瑠璃子の婿(むこ)にどうかと聞かされた人物である。
「案内役って? どうしてわたしが? 筑紫大宰さまのお仕事や大宰府について学ばれるのなら。お父さまか大宰府の役人の方にお願いした方がいいのではない?」
父は、言葉では答えなかった。その表情は少しもゆるがず、太い眉の下の強い力を持った目は、まっすぐに瑠璃子の顔に向けられていた。
瑠璃子には、すぐに父の意図が分かった。
「お父さまは、その方を迎えるおつもりなのね? わたしの婿として」
父がうなずくが早いか、瑠璃子は早春の冷たい床をけって立ち上がった。
「いやです、絶対にいや!」
大声でさけびながら、瑠璃子は父をにらみ下ろした。
「分かっていらっしゃるはずよ。わたしには鈴丸でなきゃだめだって。去年どれだけ鈴丸が筑紫のために働いてくれたと思っているの? 鈴丸がいなかったら、わたしはあの時、病で命を落としていたかもしれないのよ。鈴丸や法蔵さまたちといっしょに疫鬼(えきき)と戦っているうちに分かったの。単に小さい時からいっしょにいたからってだけじゃない。わたしには鈴丸が必要なの!」
父は身じろぎさえしない。その表情は水のように静かで、どんなに瑠璃子が抵抗しようとしても、曲げるつもりのない確かな決意を腹の底に抱いているのが分かった。
瑠璃子は、母に向き直った。
「お母さまも、気がすむまで考えなさいとおっしゃって下さったでしょう。どれだけ考えてもわたしの気持ちは変わらないわ。わたしには鈴丸でないとだめなの!」
「瑠璃子」
母は困ったような顔をしてわずかに首をかしげながら、父よりはやや柔らかい眼差しで瑠璃子を見つめ返した。
「あなたも分かっているはずですよ。鈴丸は確かに優れた若者ですが、あなたの婿になれる身分ではありません。それに、本来なら……」
母は少し表情を引きしめた。
「お父さまからは言いにくいことでしょうから、母から言いましょう。鈴丸が仕えているのは、あなたではなくお父さまです。そのお父さまの娘のあなたと情を通じるなど、ただではすまないことなのですよ」
冷たさの中にも、日ごとにわずかな暖かさを見せるようになっていた、早春の空気。それが再び、真冬の刃(やいば)のようなそれに引きもどされたような気がした。
自分がしかられるのも、父や母と言い争いをするのも、別に怖くはない。けれど鈴丸は別だ。まさか、父は……。
全身が凍り付き、のどがからからにかわく。瑠璃子はのどからようやく声をしぼり出した。
「まさかお父さま……。鈴丸を……罰するおつもりなの?」
すると、母が静かに首を横にふった。
瑠璃子の体から、わずかに力がぬけた。
「いいえ。あなたの言うとおり、鈴丸が疫病から筑紫を救うために、どれほど自分を犠牲にしてくれたかはわたしたちも分かっています。ですから、あなたとのことはなかったことにし、引き続いて鈴丸がこの屋敷に住み、あなたに仕えることを許したのですよ」
瑠璃子はぎゅっと唇をかんだ。瑠璃子にだって分からないわけではない。鈴丸と瑠璃子の身分がちがうことなど。でも、それでもいやだった。鈴丸以外を婿に迎えることなど。
「お父さまだって……」
瑠璃子は父をにらんだ。
「お父さまだって、先の帝と縁談が決まっておられたお母さまを横取りされたのでしょう? 人のことを言えないのではないですか?」
「瑠璃子! どこからそのような話を? お父さまに失礼ですよ!」
母が血相を変えた。瑠璃子は済まして話を続けた。
「鷹雄(たかお)が昔よく話してくれましたもの。お父さまはそれほどお母さまをお思いだったのですよって、何度も。ですからわたしも、男と女というものは、強い思いによって結ばれるものだと思っておりました」
鷹雄というのは、虎麿の家来で、虎麿がまだ都にいたころから仕えていた老人だった。昨年の三月に年を取って亡くなったばかりだった。
まだ何かを言おうと開きかけた母の口を、父は軽く手を挙げて制した。
「よい。瑠璃子、あの時のこととおまえの縁談は、まるでちがう。先の帝にとって大事だったのは、母上の実家と力を結ぶことだった。だから母上でなくてもよかったのだ。実際、その後母上の妹を妻にされた。けれどわしには母上でなくてはならなかった。それだけのことだ。それに」
虎麿は一度息をついた。そして一段と強くなった両目の光をまっすぐに瑠璃子に当て、かんでふくめるようにして言った。
「よいか。母上の実家もわしの家も、都では帝のそば近くにお仕えする家柄じゃ。おまえと鈴丸の場合とはちがう」
父の言葉には有無を言わせぬ強さがあった。
鈴丸には家柄がない。一度は異国の高貴な人の血を引いているのではないかとも思われたが、幽世(かくりよ)で全てが明らかになった。鈴丸はかつて筑紫を治めていた筑紫の君磐井(いわい)一族の没落と共に山野にかくれ、オニと呼ばれるようになった、製鉄の民の末裔だった。もともと都で帝のそば近く仕え、筑紫の国を任されるようになった虎麿とは、身分がちがう。
けれど国を治めるのに必要なのは、果たして身分や家柄だけなのだろうか。瑠璃子は父の気迫に負けまいと、ぐっと腹の底に力をこめ、父をにらみ返した。
「けれど唐の国では、身分に関係なく能力のある人を取り立てて大事なお役目につかせているというわ。唐があれほど栄えているのも、身分よりも能力を大事にしているからだって。わたしがすべきことは、お父さまの跡をついで、この国に住む人たちが幸せに暮らせるように力をつくすことでしょう? それに必要なのは、本当に身分や家柄だけなのですか?」
虎麿は一瞬軽く目を開いたが、やがて息をつき、瑠璃子の顔をじっと見上げた。
「身分にこだわらぬというが、おまえは身分とは一体何か、この国の仕組みがどうなっているか、知っておるのか?」
「え?」
瑠璃子は父の言葉の意味を図りかね、言葉につまった。身分。遠い都に帝がいて、それを支える人たちがいて、田畑を耕す里人がいて……それくらいのことは分かる。けれどみんな同じ人だ。帝は神に近い存在だというけれど……。
武蔵寺の書物で、大陸の国の仕組みや国を治めるものとしての心づもりなどは学んだつもりでいたが、実際自分が住んでいる国の仕組みがどうなっているかというと、瑠璃子は意外に答えられなかった。
父はたたみかけるように言った。
「よいか。もう一度考え直せ。縁談をぬきにしても、宗像の君のご子息と話すことは、瑠璃子、おまえにとって有益となることはまちがいない。おまえはまだ知らぬのだ。この筑紫を治めるということがどういうことかを」
「宗像の君の娘御は、今の帝と結ばれて、皇子をお生みになったのですよ」
横から母が言いそえた。
「宗像の君徳善(とくぜん)さまの娘御・尼子娘(あまこのいらつめ)さまは、帝にお仕えする多くの女性の中で、だれよりも早く皇子をお生みになりました。高市皇子(たけちのみこ)さまです。高市皇子さまは大変優秀な方で、一昨年の乱の時も、父の帝を助けてそれはそれは勇猛に戦われたとか。他の皇子たちはまだ年若でいらっしゃるから、だれよりも頼りにされている皇子さまです。そして……」
母は裳裾(もすそ)を整え、居住まいを正した。
「今こちらにお迎えしているご三男の海人(うみひと)さまは、徳善さまの孫に当たる方。高市皇子さまにとっては従弟になります」
皇子の従弟。皇族というものは遠い都にいる、この世で最も高貴な人々だということは分かっていても、どこかその存在は雲をつかむようで実感のわかないものだった。けれど、こうして、縁続きの人物が身近に現れたとなると、急にその存在がひどく大きく、身にのしかかってくるように思える。そしてその当人である、海人という人も。瑠璃子はごくりとつばをのんだ。
「そもそも宗像氏は、何百年も前から帝の一族とのご縁が深く、大陸との交通を担ってきたのじゃ。帝との結びつきも、筑紫をはじめとする西海道(九州)を治めてきた歴史の長さも、我々とは比べ物にならぬ。学ぶことは多くあろう。いや、おまえがわしの跡をつぐなら、今後、避けては通れぬ相手なのだ」
跡をつぐなら、避けては通れない相手。そう言われてはこばむわけにもいかない。けれど鈴丸への思いは変わらない。瑠璃子は床に視線を落とし、視線をさまよわせた。