目次
主な登場人物
遠の朝廷について
関連年表(※紙書籍版のみ)
序章 客人(まれびと)たち
第一章 前触れ
第二章 武蔵寺
第三章 迫りくる災い
第四章 疫病の始まり
第五章 迫りくる病
第六章 うごめく疫鬼
第七章 疫鬼との戦い
第八章 鈴丸との別れ
第九章 鉄と鈴
第十章 鉄の民の悲劇
第十一章 神と仏と鬼と人
終章 この人と共に
主な参考文献
あとがき
『遠の朝廷にオニが舞う』の舞台を歩く(※紙書籍版のみ)
『遠の朝廷にオニが舞う』関連マップ(※紙書籍版のみ)
主な登場人物
瑠璃子(るりこ)姫……九州筑紫(ちくし)地方の豪族・藤原虎麿(ふじわらのとらまろ)のひとり娘。
鈴丸(すずまる)……瑠璃子姫の幼なじみで従者。孤児。
藤原虎麿……九州筑紫地方の豪族。瑠璃子姫の父。
法蔵(ほうぞう)……百済(くだら)から亡命してきた武蔵寺(むさしでら)の僧。瑠璃子姫と鈴丸の師。
栗隈王(くりくまのおおきみ)……筑紫大宰(ちくしだざい)。九州北部を統治している皇族。
蓮行(れんぎょう)……武蔵寺の僧。法蔵の弟子。
遠の朝廷(とおのみかど)について
都から遠く離れた地方の政庁、あるいは遠方の政庁に派遣される官人。とくに大宰府を指して使用される。
関連年表
六六〇年 百済(くだら)滅亡
六六一年 斉明(さいめい)天皇・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)率いる百済救援軍が九州に到着、同年斉明天皇病死
六六三年 白村江(はくそんこう)の戦い、百済・倭国(わこく)の連合軍が唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍に敗れる
六六四年 筑紫の国に水城(みずき)が築かれる
六六八年 中大兄皇子即位、天智(てんじ)天皇となる
六七二年 天智天皇崩御、次の皇位をめぐって天智天皇の息子・大友皇子(おおとものおうじ)と弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が争う(壬申(じんしん)の乱)
六七三年 大海人皇子が天武(てんむ)天皇として即位
七世紀後半の東アジア
序章 客人(まれびと)たち
天武(てんむ)二年(六七三年)、夏の盛りの六月二四日。筑紫(ちくし)(現在の九州北部)・大宰府(だざいふ)の空は、雲一つなく見事に晴れ渡っていた。
「ねえ鈴丸(すずまる)、見える? そろそろ来たみたいよ、新羅(しらぎ)の人たち」
瑠璃子(るりこ)は袴が汚れるのも構わず、土を盛り上げた大堤(おおつつみ)の上に腹ばいになり、身を乗り出した。四王寺(しおうじ)山と牛頚(うしくび)山の間の狭い平野部を塞ぐように作られた、長さ二里余り(一.二キロメートル)に及ぶ大堤の向こう側には、堤に平行して幅半町(六十メートル)ほどの満々と水をたたえた堀が横たわっており、夏の日差しを跳ね返してキラキラと輝いている。水城(みずき)と呼ばれる長大な堀と大堤には、東門と西門の二か所からしか人は出入りできない。東門の向こうには北に向かって街道が続き、その果ては那(な)の津の港まで続いていると聞かされていた。
一方、西門から伸びる街道は、外国の使節が訪問の目的を説明したり、都へ向かう許可を得たりするためにいったん立ち寄る筑紫館(ちくしのもろみ)への道だ。
この水城の大堤は、大宰府を外敵の侵入から防ぐために、膨大な労力と財を投じて作られた。十年前の戦で滅ぼされた百済(くだら)(朝鮮半島南部にあった国)から亡命してきた憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)らが指導に当たって作られたものである。
今、水城の西門に向かって、きちんと整列した一行が、警備の兵士たちに守られながら、ゆっくりと進んでくるのが視界に入り始めた。
瑠璃子は、額から流れ落ちて目に入ろうとする汗を袖でぬぐい、興奮で踊りだしそうに鳴り出す胸を抑えて、さらに目を凝らした。口では鈴丸の名を呼んでも、鈴丸の方には一瞥もくれない。鈴丸は後ろでいつもの呆れたような、困ったような笑みを浮かべながらも、瑠璃子の体が堤から滑り落ちないか丹念に気を配っているに違いない。
街道を歩いてくる人々の姿が、少しずつはっきりと見え始めた。
黒を基調とした甲冑姿の兵士たちに守られながら、裾の長い、薄緑の縁取りに飾られた白い着物に身を包み、背筋をぴんと伸ばして馬を歩かせている二人の人物が見える。頭には黒い小さな帽子を乗せ、背に流れる長い黒髪が、時折風に揺れている。さらに、大きな包みや箱を捧げ持った従者たち。遠目にも、このあたりの人々とも、十年前の戦で百済から逃れてきた百済人たちとも違う、固く研ぎ澄まされた雰囲気が伝わってくる。
「わあ、やっぱり変わった着物を着ているのねえ。でも素敵だわ。わたしたちの着物とは違った雅やかさがあるみたい。どんなお話しに来られたのかしら」
「都に向かわれた方々は、先帝のお悔やみと新帝の即位の祝賀を申し上げに行かれたそうですよ、姫様。こちらに来られた送使(そうし)の方々は、筑紫大宰(ちくしだざい)様へのご挨拶でしょう。外国(とつくに)から見えた方々は、都へ入る前に筑紫大宰様にご挨拶するのが慣例になってきていますから」
鈴丸は、瑠璃子や鈴丸に勉学を教える武蔵寺(むさしでら)の僧たちのように、丁寧に含めるように説明した。姫様、という言葉に何やら皮肉めいた響きを感じて、瑠璃子は頬をふくらませた。
瑠璃子の格好と来たら、風通しのよい袍(ほう)(上半身に着る着物)に、少年のような袴姿だ。おおよそ姫様という言葉から連想される姿とは程遠い。
「もう、姫様はやめてってば。鈴丸が言いたいのは、筑紫大宰様のお役目も、変わってくるってことでしょう?」
瑠璃子は鈴丸を振り返った。数え十三歳の瑠璃子より一歳年長なだけなのに、鈴丸はずっと年上のように見える。瑠璃子より頭一つ分長身で、ほっそりとしているが均整の取れた肢体。無造作に首の後ろで縛っただけの黒髪は艶やかで、切れ長の目は思慮深そうな光を宿している。口元には穏やかな笑みを浮べ、大声を上げることなど滅多にない。
首からは、三又に分かれた瑠璃子の指の長さほどの鉄の棒の先に、小さな鈴がついている、不思議な道具を紐で下げている。三つの鈴は、鈴丸が歩くたびに涼やかな音色を立てるのだった。
「今までのお役目は海の向こうから攻めてくる敵に備えるのが大事なお仕事だったけど、戦が終わった以上、海の向こうから来るのは敵ではなくてお客様。そのお客様を迎えるのがお仕事になった、っていうことでしょ」
瑠璃子が得意げに言うと、鈴丸は口の端を少し上げて微笑んだ。
「さすが姫様。よく理解しておいでですね。さらに言えば、外国と言っても様々で、唐(もろこし)もあれば新羅もあれば、高句麗(こま)、耽羅(たんら)もある。我が国の帝はじめ都の有力貴族の中にも唐派と新羅派が常にしのぎを削っているそうですよ。この度即位なさった帝はどちらかといえば新羅派のようですからね。これからは新羅からの客人が増えるかもしれませんよ」
「姫様はやめてって言ってるでしょ。それともお母さまに言われたの? こんなお転婆じゃ良い婿が取れないとか、少し姫君らしくするように言いなさいとか」
瑠璃子が鈴丸をにらむと、鈴丸は答えず、少し困ったように首をすくめて見せた。瑠璃子は小さな笑い声を立てた。
「いいの。誰も婿に来てくれなかったら、鈴丸が来てくれるでしょう?」
「またそのような。私はただの家人(けにん)(身分の高い家に仕える従者)ですよ。姫の婿になれるような身分ではありませんよ」
わざとらしくため息をついてみせる鈴丸に、瑠璃子は真面目な顔で答えた。
「あら、でも、唐では、科挙(かきょ)の試験に受かれば、生まれた身分が低くても大事なお役目に付けるようになるのでしょう。そうすれば婿入りに身分の差なんて関係なくなるのでしょう。この国もそんなふうになればいいのに。鈴丸ならきっと大丈夫よ」
「さあ、それはどうでしょう。唐の科挙は四書五経をそらんじても合格は難しいと聞きますよ。それに家柄にこだわる我が国で、そんな仕組みが取り入れられるでしょうか」
「うーん、でもこの度即位なさった帝は、家柄よりも能力のある人を中心に取り立てられたと聞くし。無理ではないんじゃないかしら?」
すると鈴丸は、瑠璃子の注意をそらすように、堤の向こうを指さした。
「ほら、姫様、いよいよ来られたようですよ。もうすぐ西門に入られるようです」
瑠璃子は慌てて堤の上に這い上がり、目をこらした。鈴丸としゃべっているうちに、新羅使の一行は、満々と水をたたえた堀の上にかけられた橋にさしかかっていた。橋を渡ると、瑠璃子たちが身を乗り出している大堤の一部をうがつように、狭く設けられた西門にたどり着く。その門は、今、甲冑に身を固めた門番たちの手で、開かれようとしていた。
一行の姿が、かすかに揺らめきながら、水面に映っては消えていく。身を乗り出してその姿を追った瑠璃子の目は、しんがりをつとめている従者のところで釘付けになった。
瑠璃子や鈴丸たちより、さらに小さな男童(おのわらわ)。まだ六、七歳ほどだろうか。新羅使の二人に比べると粗末だが、こぎれいな着物に身を包み、しずしずと歩いてくる。一見何の変哲もない従者に見えるが、その歩調は気のせいか一行より少し遅れがちに見える。そして、何よりも瑠璃子の目をひいたのは、水面に映った従者の影だった。
明るめの茶色の服を着ているのに、水面に映った影は、黒く見える。日輪の光の加減かと思ったがそうではない。服や体全体が黒く染まっているわけではない。煙のようにもやもやした……影のように実体のない……何かが……体にまとわりついているような……。
全身に浮かんでいた汗が、一気に冷えていく。土をつかんでいた手が震えだす。
なんだか分からない。初めて見るもの。ただ、見ていると胸の底をむしられるようだ。あれは、何かよくないもの。けれど、目をそらすことができない。
「どうされました?」
急に黙りこくった瑠璃子を心配してか、背後から鈴丸が声をかけてきた。背中に、温かい鈴丸の気配を感じる。寒気が、ほんの少し和らいだ。
「鈴丸、あれ……何かしら」
瑠璃子は、震える手で、その従者を指さした。従者の姿は、今まさに西門の中に消えようとしている。もうその姿は水面には映っていない。ところが、瑠璃子の隣に堤をよじ登ってきた鈴丸は、大きく息を呑んだ。その音が、はっきり聞こえるほど。
瑠璃子は思わず鈴丸の顔を振り返った。鈴丸が何かに驚くなど、めったに見られるものではない。いつも小憎らしいほど落ち着き払って、めったなことでは動じない鈴丸が。
鈴丸の切れ長の目は大きく見開かれ、笑みの消えた口元から、乱れた吐息がもれる。白い頬がかすかに震えている。鈴丸の視線の先で、西門がゆっくりと音を立てて閉じられた。
「行きましょう。今から行っても追いつかない。大宰府に先回りしましょう」
鈴丸の声は上ずり、かすれていた。鈴丸は瑠璃子の体を半ば抱きかかえるようにしながら、大堤の斜面を滑り降りた。地面に足が付くと、鈴丸は瑠璃子の手を取って引き起こした。
「え、何? 鈴丸、あれは何なの?」
鈴丸は瑠璃子の疑問には答えず、瑠璃子の手を引き、大宰府に向かって走り始めた。
第一章 前触れ
一 鈴丸の奇行
俗に遠の朝廷と言われる大宰府は、西海道(さいかいどう)(九州)の中心地であるとともに、朝鮮半島・中国大陸へ最も近い都市であった。ちょうど十年前、大和朝廷の率いる朝廷軍は朝鮮半島の白村江で唐(中国)と新羅(朝鮮半島北部の大国)の連合軍に敗れ、以来大宰府は大陸からの防衛の拠点であった。だが、戦から時が経ち、両国との関係が敵対から友好へと変化するにつれ、大宰府は外国への玄関口の役割を担うようになったのである。大宰府の長官は朝廷より派遣された筑紫大宰で、瑠璃子の父の藤原虎麿は、筑紫大宰のもと、筑紫の国を治める役目にあった。
山を背にした広い平野に築かれた大宰府政庁は、西海道に他に類を見ない堂々たる威容を誇っていた。まだ一部は建設中だ。
回廊に囲まれた堂々たる正殿(せいでん)。右奥の小高い丘には、壷を階段状に重ねた漏刻(ろうこく)(水時計)が鎮座している。技術の粋を尽くして、先帝である天智帝がこの地に作らせたものだ。
二人は汗だくになって大宰府にたどり着いた。
何度か虎麿に連れられて大宰府の門をくぐったことはあったが、新羅使を迎える今日は、さすがに警備が厳しい。
「これでは入れませんね。姫、門衛の方に話をつけられませんか?」
瑠璃子は、大宰府の門を守っている門衛の方をうかがった。槍を捧げ持ち、緊張した面もちで門の前に立っている門衛は、瑠璃子の顔見知りではなかった。ここで虎麿の娘だから入れてくれと頼んだところで、こんな格好では信じてもらえまい。
「たぶん無理だわ。こっちに来て」
瑠璃子は鈴丸をうながして、建物の裏手に回った。以前漏刻の見学に来た時に、大宰府の北側の築地(ついじ)(塀)の一部が崩れているのを見つけたのだった。昨年の野分(のわき)(台風)の影響だろうが、誰も気づかないのか修理されないままになっていた。
二人は築地の破れ目から忍び込んだ。ここは正殿のちょうど裏側で、厨房や倉庫などの実用的な建物が建っている。正殿の正面とは回廊で区切られ、正殿の正面の広々とした中庭が、使節の供応などの儀式に充てられる。
中庭は周囲に太い柱で支えられた回廊をめぐらせてある。二人は身を低くして正殿の床下をくぐり、回廊の柱の陰に身を隠した。
二人が柱の陰に身を隠すやいなや、官道に面した南側の正門が開き、新羅使の一行が姿を現した。同時に正殿から現れたのは、筑紫大宰・栗隈王だった。
「この度は遠いところをよくぞお越しくださった。この大宰府に新羅の方をお迎えできるとは、この上ない喜びと……」
低く朗々とした声で挨拶を述べる。瑠璃子も何度か父親と一緒に会ったことがある。父の虎麿ほどではないが、堂々たる体躯の、壮年の貴族だ。
続いて、栗隈王の横に控えた壮年の男が、瑠璃子には分からない言葉で何かを新羅使に伝えた。通辞(つうじ)(通訳)が大宰の言葉を新羅の言葉に訳して新羅使に伝えているのだろう。
瑠璃子と鈴丸は、柱の影から目を凝らして、新羅使の一行を観察した。奇妙な黒い煙のようなものを体にまといつかせていた、あの男童はどこに行ったのだろう。
栗隈王に新羅使が何かを答えた。続いて通辞が大和の言葉で通訳する。
「こちらは新羅使・韓阿飡金承元(かんあさんこんじょうがん)様。一飡金薩儒(いつきつさんこんさちぬ)様。先帝・天智帝のお悔やみと天武帝の即位のお祝いを申し上げるためにいらしたとのことです。お二方はこうおおせられておいでです。『こうして再びわが国と筑紫との間に行き来が出来るようになり、我が王・武烈(ぶれつ)王もこの上なくお慶(よろこ)びです。我が王はご存じのように、かつて貴国の都にもおもむかれたほど、貴国と縁の深い方。また筑紫の地とわが国は、かつてより人の行き来が盛んでございました。かつて筑紫の君は……』」
そう言って、通辞はふと言い淀んだ。栗隈王が不審そうに通辞を見る。
「どうした? 何か分かりにくい言葉でもあったのか」
「いえその。失礼致しました。新羅使さまは、再びかつての交わりを筑紫との間にもよみがえらせたいとおおせです」
通辞は表情を隠すように、深く頭を下げた。
「あの人。どうしたのかしら」
瑠璃子はこっそりと鈴丸に尋ねた。鈴丸は新羅使一行から視線を外さないまま、早口の小声で答えた。
「おそらく、昔筑紫を支配していた筑紫の君一族のことでしょう。筑紫の君一族は新羅と親交が深かったのですが、当時の帝に逆賊として討伐(とうばつ)されたと聞きます。栗隈王は帝の親族ですから、通辞の方は遠慮なさったのでしょう」
なるほど、と瑠璃子は思った。政治がらみのことは色々複雑なのだろう。
長々とした挨拶が続く。中身はほとんどなく、形式的なものだ。他の従者たちの陰に隠れているのか、あの男童の姿は見えない。けれど、探そうとして下手に動くと見つかってしまう。苛々していると、見慣れた姿が栗隈王の横からすっと現れた。
「お疲れのことでしょう。まずはお休み下さい。別席を用意してございます」
瑠璃子の父の虎麿だ。虎麿は、先帝の時代より朝廷に仕え、功績が認められて、今は筑紫の国を任されている。瑠璃子は遅くにできた一人娘だったため、瑠璃子にとって虎麿は祖父といってもいい年齢だったが、瑠璃子は父をとても尊敬していた。
虎麿に促され、新羅使の一行が動き出した。その時、瑠璃子は思わずあっと声を上げそうになった。やはり、別の従者の陰になっていたのだ。体に影のようなものをまとわりつかせていたあの男童の姿が、はっきりと目に映った。
子どもほどの大きさしかないくせに、顔には皺が寄り、頭髪はまばらだ。しかも、その体には、黒い霧のようなものがまとわりついている。そして……。
さげすむような、からかうような、不気味で邪悪な笑みを浮かべている。
病があり、子どもほどの大きさしかない大人というものが存在するのは知っていた。けれど、あれはそんなものとは違う。あの悪意に満ちた表情。あれは何か、ひどく悪いもの。この世に存在すべきでないものだ。
全身に浮かび上がっていた汗が、一気に冷え、背に震えが走った。
瑠璃子は鈴丸の名を呼び、鈴丸の衣の袖をつかんだ。
鈴丸は中庭の方を向いたまま、分かっているといったようにうなずいいた。
鈴丸は自分の衣の裾をつかんだ瑠璃子の手をつかんで外し、素早くささやいた。
「姫。姫はここにいてください。何があっても動かないように」
言うなり鈴丸は、柱の陰から飛び出した。
同時に、肌にまとわりつくような夏の蒸し暑い空気に、一筋の秋風を吹き込むような、澄んだ鋭い鈴の音が、中庭に響き渡った。
「鈴丸!」
瑠璃子は思わず声を上げそうになって、慌てて口を抑えた。幸い、皆の注意は音のした方に向けられていて、柱の陰の瑠璃子に気づいた者はいなかった。
鈴丸がいつも肌身離さず首から下げている、不思議な形をした鈴。
それを鈴丸が振ったのだ。
何が起こったのか分からずあっけに取られている人々の前で、鈴丸は青空の下、背筋を伸ばしてすくと立ち、あの鈴――三つの珠のついた鈴を手にして、妖しいくらいに美しく微笑んだ。
小さい時から一緒に育ってきた鈴丸が、知らない人間になってしまったような気がした。
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