胸の奥がざわめき、鎮まらない。
夜闇の中で風に揺らされる木々のように、自分ではどうしようもなく荒れる気持ちから逃れようと、私は一人、山に分け入った。
私と外道丸(げどうまる)さまが大江山の一員となって、1年が過ぎた。
その頃から、外道丸さまは「酒呑童子(しゅてんどうじ)」、私は「茨木童子(いばらきどうじ)」と呼ばれるようになった。最初は慣れなかったが、私は人であった時の名など忘れたかったから、むしろ嬉しかった。外道丸――酒呑童子さまの名も、新しい名の方がぴったりのような気がした。酒呑童子さまは、人の道に外れたことなど、する方ではない。そのことは、私が誰よりもよく知っていた。
大江山の民たちは、驚くほどすんなりと、私たちを受け入れてくれた。――彼らは人の姿をしているにも関わらず、鬼の姿となった私たちを。それは彼らが、鬼の姿となった者が、どのような運命をたどって来たかを、長く語りついできたからだった。
明るく美しく、温かい酒呑童子さまは、いつも人々の輪の中心にいた。
笑い、語り、子どもに肩車をせがまれ、娘たちに酒を注がれている。
火のそばで揺れるその姿は、まるで人々を明るく照らす日輪のようで――私は、少し離れた場所から、それを見ていた。
私は、あの方の隣にいる時でさえ、言葉が少ない。
ましてや他者の輪に入るなど、できはしない。
分かっている。
酒呑童子さまが誰にでも優しいことも、誰かを特別に見ているわけではないことも――酒呑童子さまの恋人は、私だけだということも。
それでも。
娘たちが楽しそうに笑い、酒呑童子さまが屈託なく応じるたび、胸の奥がざわつく。
――私は、何を恐れている。
そのざわめきをごまかすように乱暴に足を運び、気づけば私は、集落を離れていた。=======================================================
山へ入るつもりはなかった。多少慣れたとは言え、山の中では方角を見失うことは、簡単に命の危機につながることは分かっていたから。
ただ、少し一人になりたかっただけだ。
私は、いつも目印にしている奇岩からさほど離れていない場所に、がっしりとした太い幹をもつ大木を見つけると、その根元に身を預けた。地面にしっかりと張った根と、暖かな幹が、私の背を受け止めてくれた。――まるで酒呑童子さまの腕のように。
分かっている、酒呑童子さまは、村の誰と親しくなろうが、好意を寄せられようが、決して私から気持ちを動かしたりはしないことなど。うぬぼれではない。酒呑童子さまは、そういうお方だ。
決して私を不安にさせまいと、日ごと夜ごとに、言葉で、行動で、飽きるほどに気持ちを伝えてくれる。
分かっている、分かっているのだ。私はこれ以上あの方に、何を求めるというのだろう。
あの方の腕のように力強く、揺るがぬ大木の幹に身を預け、そのぬくもりを肌でむさぼっているうちに、少しずつ、少しずつ、胸の底の波は治まって来た。
――茨木。愛してる。
――おまえは他の誰よりも綺麗だ。オレの恋人は、おまえだけだ。
甘く、心をとろかす声。胸の奥に大切にしまいこんだその声をかみしめ反芻する。そう、何も心配することなどないのだ。
大きなため息とともに私は、胸のざわめきを吐き出した。
そろそろ戻らなければ。急に冷静になった頭に、そんな考えが浮かんだ。あまり長く姿を見せないでいると、酒呑童子さまが心配する。私は弾みをつけて身を起こし、大木から体を離した。
気が付くと、いつの間にか霧が出ていた。
白く、重く、音を吸い込むような霧。
踏み出した足元すらも見えない。いつも目印にしていた奇岩の位置も分からない。
来た道を戻ろうとしても、どこが来た道なのか、分からなくなっていた。
――これは、まずいかもしれない。
山は、慣れていると思った場所でも、簡単に方角を見失う。霧が出たらなおさらだ。
こういう時は、動かない方がいい。霧が晴れるまで、待った方が……。
しかし、霧はなかなか晴れなかった。それどころか、ますます濃く、重くなる。私を酒呑童子さまや大江山の人々の住む世界から、隔絶しようとするかのように。
背中を冷たいものが伝うのが分かった。
段々、時の感覚がなくなっていく。空もいつのまにか灰色の雲で覆われ、日輪がどこにあるかもわからない。私が村を離れてどれほどたったのか。酒呑童子さまは、私がいないことに気づいただろうか。もし、心配をかけてしまったら――でも、やみくもに動いて、本当に迷ってしまったら――!
ここに来た時とは別の理由で、胸の底が再び荒れ始めた。胸が急き立てるように激しく打ち始めた。その時だ。
霧の奥に、影が立っていた。
人の形をしている。
だが、額には――角があった。
よく見ると、人影は、一人ではない。
三人だ。背丈や体形が微妙に異なるが、表情は霧に覆われて見えない。
一人の角は折れ、一人は奇妙な方向に体がねじれ、一人は今にも倒れそうにうなだれている。
ひどく疲れているように見えた。彼らの体から、悲しみが、霧のように滲み出ている。
それでいて、どこか恐ろしい。しかし……。

――呼ばれている。
彼らの何かが、ひどく私を惹きつけるのだ。
抗いがたい衝動に、足が、勝手に前へ出る。
霧の中へ、異界へと、引き込まれるように。
(……行くな)
どこかで、理性が叫んだ。行ってはいけない。私がいるべき場所は、彼らの元ではない。
だが、その声は弱く、遠い。私は夢中で足を前へ前へと踏み出した。
その時、足元がずるりと滑った。あっと思う間もなく、体が傾く。その時、
「茨木!」
霧を裂くように、声が響いた。
次の瞬間、強く腕を掴まれ、私は引き戻された。力強く、温かい腕。
この感触は振り向かなくても分かる――酒呑童子さまだった。
「何をしている!」
息を切らし、肌寒い霧の中だというのに、額に汗を浮かべている。
「……酒呑童子さま」
それしか言えなかった。
酒呑童子さまは、私を強く抱き寄せた。
「どこにいたんだ。探したぞ……一人でよそに行くな」
叱るような声だったが、腕は震えていた。
胸に押し付けられた鼓動が、はっきりと伝わってくる。
その熱に触れた瞬間、霧の冷たさも、幻影の気配も、すべてが遠のいた。
酒呑童子さまも、私と同じように不安なのだ。酒呑童子さまは、私の不安を知っていて、それを和らげようと、日ごと夜毎、愛を伝えてくれる。それに比べて私はどうだ。
私ははっとした。
私は酒呑童子さまを抱きしめ返し、その耳元に囁いた。
「すみません。私はどこにも行きません。あなたのそばだけが、私の居場所なのですから」
酒呑童子さまは間髪を入れず、私を息も止まるほど強く強く、抱きしめた。
いつの間にか霧は晴れていた。
そして……私が足を踏み出した半歩先は、地の底へ続くかと思うほど、深い深い、全てを呑み込むような断崖だったのだ。
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村へ戻った後、年を経た媼(おうな)から聞かされた。
私が見た影は、かつてこの山に住み、朝廷に討たれ、滅ぼされた鬼たちの残滓だと。
名を奪われ、存在を否定され、行き場を失った魂。
「霧に迷い、引き寄せられれば、戻れぬ者もおる」
そう言われ、私は背筋が冷えた。
酒呑童子さまは、黙って火を見つめていたが、やがて静かに言った。
「そうか……オレたちと、同じものだったのだな。だが……」
酒呑童子さまは、拳を握り締め、声に力を込めた。
「オレは、ここに生きる者たちを、守る。
人であろうと、鬼であろうと。
そうでなければ、オレたちがここにいる意味がない」
失われた者たちの悲しみは、消えない。
だが、その上に、新たな絶望を積み重ねてはならない。
この山で暮らす者たちの火を、笑いを、命を――守る。
酒呑童子さまと共に。
その夜、私は改めて、はっきりと思った。
嫉妬も、不安も、弱さも。
すべてを抱えたままでも、私は、この方と歩いていける。
霧の向こうから、もう声は聞こえなかった。
ただ、静かで優しい大江山の闇が、私たちを包んでいた。